月の神官 10 「Her name is -Whys and wherefores-」

「あら、とても意外そうな顔をしてるわね」
 黒髪の少女はくすくすと笑いながら、目の前の黒髪の少女を一瞥する。
「えぇ、それは意外ですわ。だって……」
「まだ満月は先だから?」
 とても楽しそうに先を答えるルーラ。エマはただ、ぎこちなく頷く。
 そんな分かりきった答え、とルーラは小さく呟いた。
「神殿自体はともかく、この部屋は月の力が蓄積されてるもの。わざわざ満月を待たなくたってこれだけの力があれば数日で十分よ」
 呆れてため息をつくように理由を語る。そしてなにがおかしいのか、またくすくすと笑う。
 笑いながら、目の前の本に手を伸ばす。何気なく手に取ったそれをぱらりとめくる。ページが進むにつれて、その顔はどんどん面白く無さそうなものへと変化した。
「エマ=クレア。あなた、これを読んだの?」
 くだらない本を軽蔑するかのような目でページをめくりながら、冷たい声を響かせる。
「はい。この神殿の図書館から探しましたわ。先程まで、スカーと読もうとしていまして…」
 できるだけ落ち着いて、と己に言い聞かせるような答えは、彼女の表情を一層冷たくさせ。
「そう」
 小さな音は、カーテンの端からかすかにもれる紅い陽光の気配に消された。
 エマが聞き取れたのは、盛大なため息。
「で?これ、読めたの?」
 憤りを押し隠すような声。エマはそれに首を振る。
「いえ、文字が古いばかりでなく滲んでいるので」
 あなたの名前であろう場所から読めません、と静かな声。
「名前、ねぇ」
 くすりと口の端だけを吊り上げ、伏せた瞳を光らせる。
「読み上げましょうか?私の名前。知りたい?」
 文字を指で軽くなぞる。頷いたエマを視界の隅に捕らえ、目を閉じる。
「ルミニエラ=スカル=セーズ。これが「私」の名前」
 その声色は、口惜しいといわんばかり。でもね、と口だけを動かす。
「私はルーラよ」
 その顔はいつものような、口の端を吊り上げる笑み。しかし、その目はどこと泣く空しい色。
「ルミニエラ、だからルーラなのですね」
 納得するような、何気ない一言。
 それはルーラの瞳に鋭利さを取り戻させた。
「そう。ルミニエラ、ね」
 呟く声は、とても小さく。感情を読み取れないほど。
「ルミニエラだけど、スカル=セーズじゃないのよ、私」
 わけが分からないといった顔のエマへ瞳だけを向け、楽しそうな笑みを口の端に浮かべる。しかし、その目は最初のような嘲笑う目ではなく。時折見せる、刃物のような紅。
 それは、もしかしたらこの少女の目が赤いのは、これまで見てきた血を剣に映した色なのかもしれないという気さえ起こす。それ程に濁ったものではなく。とても鋭利。
 カーテンの向こうが陰った。厚い雲が流れてきたのか。
「これ、写本よね?」
 それは唐突な質問。今のやり取りは無かったように軽く尋ねる。
「えぇ。スカーの家では紛失したようで、現在は伝わっていないのかもしれない、と」
 席に着かず立ったまま口を開くエマの言葉に、ルーラは一瞬だけ力のない目の色を見せた。
 それは落胆か諦めか。
 でも。それは本当に一瞬。
 音も立てずに立ち上がったルーラはエマの横を通り過ぎ、スカーに割り当てられた個室へと姿を消した。何も言えずにそれを視線だけで見送り、机の上に残った封筒を手にする。封筒がかさりと音を立てると同時に、開きっぱなしの戸に人の気配がした。
 気配はルーラのもの。
 封筒を手にしたまま振り返ったエマは、そのまま声をなくした。
 その部屋から出てきたのは確かにルーラだ。ただぼんやりと立ってるように見えるが、あくまでそれは見えるだけ。少しうつむいた顔。口は堅く結ばれ。そして、右手には抜き身の剣。それはスカーが持っていた二本の内の片方。柄に巻かれた布が鍔のあたりできつく結ばれたその剣は、この辺、いや、今では見かけないもの。遥か昔に失われた形。
 彼女の後ろ。開いた戸から見える部屋のカーテンは暗い。日が沈むまでもう少し時間はあるはずなのに、太陽の光を感じない。かすかに雷と風の音がする。
「ルーラ……?」
 そろそろと呼びかけるエマに返ってきたのは、鋭利な瞳。憐れむ事も否定する事もない、純粋な殺意。エマの問いかけにも答えず。返ってきたのは、いっそう強く剣を握り締めた微かな音。

 その次の瞬間。スカーに近寄ろうとしたエマが見たのはふわりと舞った黒い髪。
 とてもゆっくりに見えたそれはあまりの速さ故。

 次の瞬間には、背を壁に叩きつけられていた。切れた黒い髪の筋がはらりと舞う。
 首元にはルーラの剣。それは皮一枚隔てたところで左後ろの壁に突き刺さり。目の前ではその剣を構えた格好のまま紅い目を鋭く光らせるルーラがいる。
 光らせた目はそのままに、「神の御加護ってやつかしら?」と彼女は口の端を吊り上げて静かに言う。
「私の名前、聞いたわよね?」
「……えぇ」
「そして、私が何者か分かった?」
 さらに静かで穏やかに。それなのに脅迫されているような雰囲気は決して損なわれない。
「推測だけなら、ある程度は」
 剣のひやりとした感覚が、首筋の横で糸を引く。
「そう。じゃぁ、きっちり話してあげましょうか。私の話」
 思考が停止したエマに、ルーラはとつとつと喋りかける。
「私は今の人間じゃない。あのムカシバナシに出てくるようなものね。祠の中に封じられていたというのも正解。どの位あそこに居たのかは分からないわ。数える事もやめたから」
 キチ、と壁が小さな音を立てる。
「なぜ、ですか?」
 いつの間にか冷たく渇いた喉で、問いかける。
「なぜ?面白い事を聞くわね」
 遠くで鐘が鳴る。月の神官の時間へと移り変わる。
「あなたはよく知っているはずよ?『昔、とあるところに1人の少女が住んでいました』って。……あぁ、でもあの話は訂正しなくてはね。私が見ていたのは幸せな夢なんかじゃないわ。重くて暗くて冷たくて、自分が自分じゃなくなりそうなものよ」
 あれを幸せと呼べたらステキだわ、と笑いもせずに続ける。
「あら。声が出ない?じゃぁもうちょっと話してあげるわね。あの話は本当。でも、あの力は私だって要らなかったわ。村人が困っている事も知っていた。両親兄弟みんな私を部屋に閉じ込めて気味悪がっていた事も。母親が村長と相談して術師を呼んだ事も」
 冷たく語られる思い出は、伝承の裏側。
「そしていつも通り眠りについて。寒くて目が覚めたら真っ暗な祠の中。理由は分かるけど、誰も話してくれなかった」
 そこで初めてくすりと笑った。
「ところであなた。エマ=クレア、って言ったわね?」
 あっさりと話を切り上げ、言葉を続ける。
 それは確認するかのような言葉。
「えぇ、そうですわ……」
 かすれた声のエマに、ルーラは一瞬だけ満足そうに笑った。
「残念だわ。どうしてスカーはこんな所に来て貴方に相談したのかしら?まったく、ここで生き残りを見つけるなんてね」
「生き、残り?」
 エマには何のことだか分からない。ただ、呆然とルーラの目を見つめる。
「えぇ、生き残りよ。テアリズ、クレア、カスガ、レ・カルマニア、ツユリ、ウェルズ、ウルキ。ほらね」
 クレアはもう居なくなったと思ったのに、なんて軽く付け足す。
「私、あなたの名前を聞いたとき耳を疑ったわ。まさかあのクレアに娘がいたなんて気がつきもしなかったもの。親は息子の事ばかり気にかけて娘なんて単語ひとつも聞かなかったわ。それに、貴方は似てない。髪の色も、目の色も違う……あぁ、息子には似てるかもしれないわね」
 その言葉で、エマはわれに返った。
「息子……兄さん、ですか?」
 しかしルーラは面白くなさそうに笑って「たぶんそうよ」とだけ言葉を返した。
 ひどく冷たい思考の片隅で、母が自分を嫌っている、と兄が言ったわけが分かった気がした。髪の色も目の色も。家族と共通するものを何一つ持っていなかったから。きっと気味悪がられたのだ。ただ、兄は生まれたばかりの自分を見た事が無かったからそれを気にかけなかっただけ。それだけのはなし。
「もう会えないけどね」
 風も無いのに翻ったカーテンの向こうには、暗くなった空。星の光も月の光もなく、厚い雲が広がるばかりの空。
「あら。今日は月が出てないの。残念ね」
 窓に背を向けたまま、そんな事を呟く。
 翻ったまま開いたカーテンの向こうには、ぽつり、と窓に張り付いた水滴が増えてゆく。
 でも、エマは静かだった。冷たい糸を首元に感じながらルーラを見つめる。
「あら、何その目。私が憎い?」
 鼻で笑うように、あなたの家族を殺したのは私だからそれは憎いわね、と冷たく告げる。
 笑うのはエマの番だった。

                         [To be continued later...]

月の神官第十弾です。とうとう二桁になりました。
ばればれだったであろうルーラの正体を明らかにして。エマの家族も実は関係者だったとか。回る回るいんねのりんね、って昔言ってましたが実は「因縁の輪廻」なのかしらと思う今日この頃。
お話の終わりまでもう少し。もうしばらくのお付き合いくださいませ。

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