左後ろに突き刺さる冷たい糸を忘れたかのように、淡く微笑む。
「別に、憎いとかそういう感情はありませんわ」
その言葉は、ルーラには気に入らないものだったらしい。目つきが面白く無さそうなものへと変わる。
「憎くない?」
貴方の答えは理解不能だといわんばかりに声を尖らせる。
「えぇ。私は家族というものを知りません。ぃぇ、知らないというのは語弊がありますわね。家族という存在は知っていますけど、声も顔も知りません。それは私にとって家族という単語以上の意味を持つものでは無いんです。ですから、あなたを憎むということも、会えないからといって悲しむ事もありません。ただ、手紙が来なくなる。それだけの事ですから」
静かな声。本当にそれだけの事、と穏やかに。
「……て?」
ルーラの口が微かに動いた。
エマが聞き返そうとする前に、彼女は目の前の対象を力いっぱい睨み付けて叫んだ。
「どうして!!!?」
その瞳は必死。エマがあっけに取られている事にすら気づかず、剣を持つ手に力を込める。
ルーラに何が起こったのか。それを考えたくなるほど変化は突然。これまでの静かな雰囲気とは一変し、完全に感情に流されている。
「なんで貴方はそんな事言えるのよ! 憎くない? なにそれ!?」
窓を打つ雨音が時折強くなる。
「私は貴方の家族を殺したのよ? なんでそんな風に笑っていられるのよ! 少しは怒ったらどうなの? ねぇ!」
がり、と壁の欠ける音。
雨音に混じって瞬間的な光も垣間見える。
「お、落ち着いてください!」
そんな声は彼女の耳に届くはずも無く、ルーラはぎりぎりと剣に力を込め続ける。
「嫌いよ! 嫌い! 大っ嫌い! 私の気も知らないで!」
言葉は支離滅裂。何が起こったのかエマにはわからないまま感情をぶつける。
雨音はさらに大きく。空はさらに暗く重く。部屋の明かりにゆれる影は頼りなく。白い壁を背にして向かい合う黒髪の少女二人をただ黒く映し出す。
「嫌い、嫌い、きらい、嫌い、きらい……っ」
ふと、雨音がやんだ。
エマは一瞬だけ、押し黙った彼女の赤い瞳からぼろぼろとこぼれる涙を見た。
本当に一瞬のこと。ルーラはすぐさま壁から剣を離し、エマから距離をとる。木の机の横で静かに止まる。
解放されたエマはそのまま床へとへたり込む。
「ルーラ……」
「近寄らないで」
手を伸ばそうとしたエマに、うつむいたまま呻く。その声に先ほどの涙は無い。
瞳を前髪で隠したまま片手で剣を持ち上げ、そのまま置きっぱなしになっていた本へ力いっぱい突き立てた。
ざくりという音と振動に合わせて細かな紙片が舞う。タダでさえぼろぼろだった本の綴じ目は今の衝撃でちぎれたようだった。
「こうなりたくなかったら、近寄らないほうがいいわよ?」
ね、なりたく無いでしょ?と、口元だけでにやりと笑い、剣を本と机に突き立てたまま、空いた方の手で前髪をかきあげる。
その顔に涙は無い。口元の笑みを湛えたまま、エマを見下している様にも見える。
「そういえばこの本、色々書いてあったわね」
さっき本を眺めていた時と同じ侮蔑に満ちた視線を向けて呟き、「でも」と言葉を続ける。
「誤算だったわね。封印は完全じゃなかったもの。長い時間が経ったら、この本みたいにちょっと外から崩してやればあっけないものよ」
剣が少しずつ本の中に沈んでゆく音がする。
外の雨音はない。ただ、雷の音だけが低く響く。
「この本がここまで脆くなる間、私がどんな気持ちだったか……」
何度壊れてしまえば楽になると思ったか。口惜しそうで静かな声は、みし、と本を貫通した剣が机をきしませる音に溶けた。
彼女がなぎ払うように剣を引き抜くと、ページはばらばらと崩れ落ちた。床に、机の上に、吹くはずの無い風で舞い上がる。
その剣を愛おしそうに一瞥し、両手で構える。
先ほどの風のせいか。誰も触れていないはずなのにいつの間にか開いたカーテンからは、重く立ち込めた雲が夜を告げる。
「どんな気持ちだったか……暗い所に1人でね」
かつん、とブーツの音を響かせて再び距離を縮める。
壁を背に座り込んだエマの目の前に再び立つ。
「ね、貴方には分からないでしょうね。夜はあんなところよりずっと明るいもの」
そして八つ当たりのように、力に任せて剣を再び壁に突き立てる。
「一人でもなくて、温かくて…………」
そこでふと気づいたように「あぁ、だから貴方はあんな事が言えるのね」と笑う。
エマは何もいえない。ただ呆然と、笑うルーラを見上げる。
「私を憎まない、なんて。そんな偽善」
「ルーラ……偽善なんかではありませんわ。本当に、貴方を憎む事なんてありません」
その言葉は真実。偽善なんかではない。エマの中で家族というのは単なる単語でしかない。血が繋がっているといわれても、実感は無い。居なくなったからといって、変化は手紙が来なくなるということだけ。
「……っ! そんなの偽善よ! ほら、言いなさいよ! 家族を返してって、貴方が憎いって、嫌えばいいじゃない!」
がつがつと剣を壁に突き立て、嫌われるのなんかもう怖く無いとエマに浴びせる。
次々に突き立てられた剣は視界の遥か上。ぱらぱらと落ちて黒い服の肩にかかる壁の破片だけが、彼女の力を語る。
「ほら……言いなさいよ!」
最後に一振り。今迄で一番大きな音を立てたそれは、エマの頭の横へ突き立てられた。両手でしっかり支えたまま、感情のコントロールできていない瞳でにらみつける。
「ルーラ……貴方はそんなに嫌われたいのですか?」
エマがその瞳をまっすぐに見つめて呟いたその一瞬、赤い瞳が揺れた。でも、すぐに嘲る様な色を取り戻す。
「そうね。それもいいかもしれないわ? もうそんなの怖くないし。……そもそも周りにはそんな人しか居ないしね」
「嘘ですわね。それ」
「!?」
静かに。それでもはっきりと形を持った声は、ルーラの顔色を変えた。
[To be continued later...]