「………そう、だったのですか」
最初に感じた違和感は、これだったのだとようやく分かる。それは他人の名を自分のものとして名乗る事に対するもの。
たとえ一つであっても、何か分かるということは安心をもたらす。エマはこれで少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
「そう。私の名前」
ルーラはエマの内心も知らないといった様子で、にこりと笑って繰り返す。
そうして、沈黙。
「お尋ねしてよろしいでしょうか?」
そっと口を開いたのは、エマ。
「どーぞ?」
「なぜ、ここに?」
するとルーラは肩をすくめ、
「さぁ?ここに来たのは私じゃないもの。そんな事知らないわ」
飄々とした様子で答える。
「それは、そう、ですけど……貴方は、ルーラ、ですよね?」
戸惑っていても、はっきりとした問いかけ。
「えぇ、そうよ」
ルーラはそれにも、あっさりとした返事を返す。
「それじゃぁ、ご相談の内容は?」
「さあね。さっきも言ったけど、その辺は知らないわ」
今度もきっぱりと答えて席を立ち、再び部屋の中をぐるりと見回す。
「?」
エマがその行動に疑問の視線を向ける。
ルーラはそれに気付いたらしく、視線を逆に投げかける。
「ふふっ。でもまぁ、あのこの言いそうなことは大抵分かるわ。どうせ、私をどうにかして欲しい、とかそんな感じじゃないの?」
私はあの子にとっていい存在ではないみたいだし?と気軽に呟く。
確かに彼女は「助けて」と言った。それは、正しいのかもしれない。
しかし、目の前にいる彼女はエマをまっすぐに見つめ、冷たい笑顔できっぱりと付け足す。
「でも、それはダメ」
エマも負けじと言い返す。
「何故でしょうか?『助けて』と言われた以上、お助けするのが私の役目なのですが」
「――― 『私達』には、するべき事があるのよ」
ルーラはしばらくの間をおき、冷たい声でそう答えた。
「そう、私達二人でするべき事が」
そしてさらに冷たく、憎しみのみで構成されているかのような声でもう一言付け足す。
「するべきこと……?」
エマの呟きには答えず、彼女はまた口を開く。今度の声は先ほどのような冷たさではなく、自信に満ちたものだった。
「それに、この子を助けようたって、貴方には到底無理。一介の月の神官で私をどうにかできる人なんて居ないわ」
そうしてルーラは、窓から見える月を仰ぐ。
「……今日も綺麗な月ね」
少々、口惜しそうな響きが見える一言。
エマも、それつられて上を見る。
頭上に空けられた丸い天窓から見える月は、見事な満月。
視界に入る白い天井、丸くて蒼い夜空、星すらも消し去る、満月の光。
見入りそうになったところでわれに返り、目の前の少女に視線を戻すと、ルーラは、ずっとそうしていたかのように紅い瞳をこちらに向けている。
「さて、残念だけどそろそろ時間切れだわ。あの子にこれを返さなきゃ」
その視線をはずすさずに肩を軽くすくめ、ため息をつきながら自分の胸に手を当てる。
そして、
「ま、そういうわけだけど。最後に一つ。貴方、名前は?」
そう、訊ねた。
「名前?…私はエマ。エマ=クレアですわ」
「…エマ…=クレア?それ、あなたの本名なの?」
ルーラは、名前を聞いて少しばかり疑問そうに聞き返す。
それは、その名前が信じられないといったような声。
「ええ。そうですが」
「あははははっ。エマ。何て事でしょうね!」
さっきの疑問に満ちた顔から一転、エマの答えを聞いた途端、突然声をあげて笑いだした。
「…?」
エマはただ、呆気にとられて、目の前で顔を片手で覆って笑う彼女を見るだけ。
「ねぇ、エマ=クレア。貴方、自分の名前の意味、知ってる?」
笑いを堪えながら問いかけるルーラに、エマはただ首を横に振る。
ルーラは、少々笑いの残っている紅い眼をを指の間から覗かせ、こう言った。
「どうしてそんな名前なのに、月の神官をしているの?貴方の居場所はここじゃぁないわ」
自分の居場所はここじゃない。
そう言われた途端、エマは何か冷たいものを感じた。
『どういう、ことですか………?』
声にならない声で問いかけようとする。
しかし
彼女の目の前で椅子に座っていたのは、既に眠りについた月色を髪に持つ最初の少女だった。
□ ■ □
それから3日後の夜。
真夜中になって彼女はようやく目を覚ました。
「あ、気付きましたね」
そう声を掛けられた少女はベッドの傍らに座るエマの方へ顔を向ける。
その顔は気だるそうで、現状を把握できていない。そんな状態で、ぼんやりと口を動かす。
「…わたし……」
「ここにいらっしゃった日から、もう、3日経ちましたのよ?」
「……みっか………」
そう呟くと、彼女はがばっと起きあがり
「町は!?」
ついさっきのぼんやりしたものはすっかり吹き飛んだといわんばかりの唐突さで訊ねる。
「…町?」
あまりの勢いの良さに、エマはただ問われたことを反芻する。
「そう、町。いや、村でもいいんですけど。私がここに来た夜に……えっと……町とか村が、無くなったりしませんでしたか?」
この一言でエマの頭に浮かんだのは最近話題になっている出来事。「満月の夜は、村や町が一つなくなる」と言うあの話題。
「いいえ、今回そのような話はまだ聞いていませんわ」
エマがそう告げると、少女はほっとしたような顔になり
「よかったぁ……」
胸をなでおろして、心底嬉しそうにそう呟く。
と同時に、少女のお腹も鳴った。
慌ててお腹を押さえ、顔を赤くした彼女に向かって、エマは笑顔を返す。
「3日間何も召し上がっていらっしゃらないのですから、何かお食べになりませんか?」
そう言って前もって準備していた食事をトレイからテーブルへと移す。
しばらく顔を赤くして「うー」とかうめいていた少女は、開き直ったかのようにベッドを降り「いただきます」と言ってテーブルに着いた。
「ごちそうさまでした」
少女はパンの最後のひとかけらを飲み込んで、丁寧に手を合わせ。
「お口に合われてなによりです」
と、エマは空になった食器をトレイへ移し、部屋の隅にある台へと片付ける。
席へ戻ると、少女はぼんやりと天窓から見える月をながめていた。
完全な円ではない、けれどもまだ丸い月。
その月の光を眺める少女の姿はどこか儚い感じがした。
「――あの、伺いたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
そのままにしておけば、少女はずっとそのまま動かなくなってしまいそうに感じたエマは、そろそろと声をかける。
「へ、あ、はいっ。何でしょうか?」
少女は慌てて我に返り、返事をする。
少女が眠っていた3日間、エマが気になっていたことは3つ。
しかし、実際この少女に尋ねられることは2つが限度だろうと考え、口を開く。
「簡潔に行きますわね。お尋ねしたいことは今のところ2つだけです」
エマは机から取り出した記帳をめくり、何もかかれていない、真白なページを開く。
「まず一つめですが。 貴方の、本当の名前は何でしょうか?その……良かったら、教えていただけますか?」
「あ……」
少女はちょっと気まずそうな顔をする。
「やっぱり、ばれてしまっていたんですね。まぁ、満月の日に来ちゃいましたから……仕方ないと言えば仕方ないです。本名だと素性がばれて騒ぎになりそうだから、この名前のままで通せれば良かったと思ってたけど、そう上手くはいきませんね」
そしてしばらくためらった後
「スカーフィア。スカーフィア=テアリズです」
と改めて自己紹介をし、自分のことはスカーと呼んでくれたら嬉しい、と付け足した。
テアリズ家のことはエマも聞いたことがある。割と名の通っていた家柄だ。通っていた、と過去形なのは、ここ数ヶ月の事件でその家系は途絶えてしまったため。
「分かりましたわ。スカー」
エマは笑顔で答える。それで少し気が楽になったのか、スカーも照れくさそうに笑う。
「それでは、二つ目に移らせていただきますわね。まぁ、これが本題に近いのですが」
「はい」
「3日前のあの少女。ルーラは一体、何者なんですか?」
その質問に、スカーの目が少し細められる。怒っているような、困っているような。少しばかり形容しがたい顔だ。
「えっと。私が相談したかったのは、彼女のことです。ちょっと話が長くなるんですけど、いいですか?」
かまわない、とエマが是の返事を返すと、彼女はさっきの表情のまま話し始めた。
「ルーラは…私に取り憑いている悪魔なんです」
[To be continued later...]