少年はがばっと身を起こし、私のほうを見た。それから顔を真っ赤にして木の幹に背をぶつけんばかりの勢いで後ずさって。
「い……一葉殿?」。
「ぁ……ぇっと……人違い、です」
私もそれを言うのがやっと。
そして風が木を揺らす音だけが通り過ぎ、私を「一葉」と呼んだ彼はさらに顔を赤くして「知り合いに似てたもので……すみません」とだけ口にした。
「それにしてもよく似ています……。お名前、聞いても良いですか?」
そっと囁くような、心地良い声。
けど私はそれどころでは無い。この時代を間違えたような格好、そしてあの話。彼はきっと、この地面の中に埋まっている本人なのかもしれない。もしかすれば、私も引きずり込まれる?あの時のクラスメイトの話が頭の中をぐるぐる回って、正直、怖くて仕方が無かった。
答えない私に疑問に思ったのか。彼は顔を上げた。それは、どこか幼い顔立ちで、悪いことなんかできないような印象。そんな彼は私を見た途端、驚いたような顔をして顔を背け。袖を伸ばして軽く頬に触れた。
「その、泣いているようでしたので……」
俯いたまま、頬に袖をそっと当てる。それは乾きかけた涙の跡。思わぬ混乱と恐怖で忘れていた気持ちがまた、溢れてくる。あっという間に塗りつぶされる。あてられた青い袖を、色濃く染めてゆく。二人櫻の木の下に立ったまま。私はただ声も上げずに泣き続け、彼は黙って袖で涙を拭ってくれた。
どれだけ泣いてもそれは止まらず。
気が付けば私は彼に泣きながら訴えていた。
同じ部活で一緒だった先輩がとても好きだったこと。名前を呼ばれるだけでも嬉しかったこと。でも、誰にも相談することは無かったこと。それ以前に、自分が先輩を好きだと気が付いたのはつい最近で、先輩の卒業が間近だったこと。昨日やっと決心して、気持ちを伝えようとした矢先に、その先輩が同じ部活の女の先輩と付き合っていることを知ったこと。
途切れながらも少しずつ。はっきりと。彼は黙って私の涙を拭き続け。そして、
「好きな相手に伝えられないのは、つらいですね……」
彼もまた。自分もそうだったのだと話し始めた。
彼、大江光成が恋をしたのは、親友の乳姉弟。とても朗らかで優しい笑顔の、櫻の様な人。
初めて会ったのは、13を数えた頃。時折文を交わしたり、季節折々に小さな贈り物をしたり。そんな風に育てた想いを伝えようとしたのは出会ってから5年後のこと。
この櫻の木は、彼女の住む屋敷への通り道。
その日もいつものように通り過ぎようとした。そう、何事も無く通り過ぎるはずだった。
「この木の前に差し掛かった途端、目が回って……それから僕はずっとこの櫻と一緒に永い時を過ごしてきました。何が起こったのかわからないまま、ここから出ることができないという事だけが確かな真実で。僕はただ、伝えられなかった想いだけが心残りで。そして、貴女がやってきたんです」
彼女によく似た貴女が。と、彼は腕をゆっくりと下ろした。
「一葉殿がそうだったからとは言いませんが。彼女に似た貴女なら、きっと笑顔が似合うはずです。……でも、思いを伝えられないまま迷わせるのは確かに辛き事。だから」
僕でよければ伝えてみませんか?と。どこか幼い笑顔を私に向けた。
私は少しためらった後に腫れぼったい目を開けて、涙を袖で拭って。彼を真っ直ぐ見て、一言だけ、言葉に乗せた。誰に宛てたわけでもない、ただの言の葉。たった一言なのに、今までの気持ちが嘘のように軽くなった。
彼はそれを大切なもののように受け止め、よくできました、これで想いが迷うことはありませんね。と笑ってくれた。
「この櫻は、迷った想いを溜め込んでいるんです。迷う想いが多くなり、限界になると赤い花を咲かせる。僕がこの前を通った時。それは櫻が限界の時だったようで、僕はその想いを共に抱える為に引きずり込まれたんです」
そう、ただ呟くように。空を見上げたその言葉。
そっか。それがあの話の原因。
近づく人を捕らえて、容量の糧にする。それでも限界になったら、紅い花を咲かせる。
そんな櫻と共に、彼はとても永い時間を過ごしてきたのだ。自分の伝えられなかった言葉を悔やみつつ。誰にも吐き出すことができないまま。
「あなたは、伝えないんですか?」
「ぇ?」
私は思わず口を開いていた。想いを抱えて迷わせ続けるなら、今の私みたいに吐き出してしまったほうが。ただ理由も無くそう思って。
でも、彼にとってその考えは意外だったのか。ちょっとだけ目を丸くして、それから寂しそうな笑顔を浮かべた。
「そうですね。確かにそれがとても楽でしょうね」
でも、と彼は言葉を続ける。
「今の僕の想いは、既に僕だけのものではありませんから」
その声はどこか寂しく、どこか空しく。
気が付けば「それでも」と口にしていた。
「それでも。伝えないまま迷わせるよりは、ずっと良いと思うんです」
私の思いは彼に受け取ってもらった。
じゃぁ、今度は私が受け取ろう。
彼はかなりの間黙りこんでいたが、決意したように顔を上げた。
「では、僕の気持ちを伝えても良いですか?」
迷うことなく頷くと、彼は軽く空を眺め、目を閉じて口を開いた。
「一葉殿。僕は貴女のことをとても愛おしく思っています。それは貴女が兼定に想いを寄せていても変わることはありません。僕はただ、貴女が幸せに笑っていられるなら……それで。一葉殿。僕が貴女に言いたいのは一言です。……僕は、貴女のことが好きです」
言い終えると、重大な役目を終えたような盛大なため息を一つついた。
その瞬間。ざぁ、という風の音と共に、紅い吹雪が舞う。
「ありがとうございます。どうやら僕が一番想いを迷わせていたようです」
風の音に混じって聞こえた声を最後に、青い彼の姿は紅い吹雪に覆われ。そしてそのまま姿を消した。
□ ■ □
そして、気付けば景色は夕方へとから夜へと移り変わっていて。
木の下には私一人。
涙はもうすっかり止まっていて。
大丈夫、もう怖くないと自分に言い聞かせて、その場を後にした。