月の神官 1 「Please moon」

「今宵も一晩、その冷たく、柔らかな光の下に」
 祝詞の最後の一節を言い終えた少女は組んでいた手をほどき、顔を上げた。
 天井にある巨大な窓から、はっきりとした弓張り月が視界に入る。
 今夜の月光は星とのバランスが良い。そんな微かな光が、佇む彼女をほのかに照らしている。
 17,8才に見える彼女が身につけている物は、黒地に銀の縁取りが取られた衣装に、三日月のレリーフが彫られた銀の髪飾り。一目で神官と判る格好をした少女の肌は陶器のように白く、躰は今にも崩れてしまいそうなほどに華奢。
 彼女が見上げる夜空には雲一つ無く、その空は何処までも何処までも続いているかのようだ。

 しかしその裏側には、此処に居ては決して触れることのできない世界が広がっている。

 しばらく何をするとも無く、月だけを見つめていた少女は、決心したように再び手を組み月に向かって呟く。それは、ここしばらく毎日のように思うこと。

「もしも。もしも、私の願いが叶うのならば、
       太陽の光というものを浴びてみたいのですが―――」

 言ってしまった後で組んだ手を力なく下へおろし、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。
「…私は月の神官なのですから、そんな事叶うはずありませんね」

 月の神官
 これは一つの官職であり、彼らはその一生を月光の元で過ごす。
 仕事も、神官が普段から行う仕事に、天体の観測や太陰暦の作成、歴史書の記録などを加えて受け持っている位で、太陽の神官とほとんど変わらない。
 唯一つ違うものは、それぞれの禁忌。
 月の神官最大の禁忌は、月光の元を離れる、―――すなわち、太陽の光を浴びること。

 理由は簡単。
 「月と太陽は相反するもの」として考えられているため。
 それ故、月の神官に選ばれた赤子は、太陽の下に一度も立つことなく成長する。

 それが普通。
 月の神官として選ばれた子供は、それが当然のことと教えられ育つ。
 この少女も、例に漏れず太陽の光に当たることは禁忌として育てられ、彼女もまた、それが当然として育ってきた。
 しかし、自分の名前の意味を知ったその日から、彼女はその考えを変えることになる。

 □ ■ □

 ここは神殿なので、祈りに来る人やものごとの相談に来る人など、一般の人も昼夜構わず自由に出入りできるのだが、ここ2、3ヶ月の間「満月の夜になると、何者かによって村や町が滅ぼされる」という事件が起こり、夜、特に満月の日に訪れる人はほとんどいなくなっていた。
 しかし、ある満月の晩。
 エマがいつものように礼拝堂で祈りを捧げている時、同じ年頃の少女が相談にとやってきた。
 その少女は、まだエマが背中を向けている時に挨拶をし、そのまま黙って佇む。そうしてエマの祈りが終わったのを確認して、自分のことは「ルーラ」と呼んでくれ、と言った。
 相談には匿名でもかまわないが、あるに越したことはない。それに、別に己の名を名乗ることは不思議なことではない。それなのに、エマはこのルーラと名乗る少女に不思議な違和感を覚えた。
「ご相談の内容は何でしょうか?」
 そんな違和感は気のせいだと自分に言い聞かせ、相談者へ最初の一言をかける。
 しかし、ルーラは何かを警戒しているかのように答えない。
「大丈夫です。ここでの話は、決して口外いたしませんし、これからも、私が責任持って貴方のご相談をお聞きしますわ」
 そう言って、初めてルーラの方を振り返る。
 ―――柔らかい月光。
 そんな印象を持つ髪の色。その髪を背中に流し、少し俯き加減にこちらを向いてたたずんでいる彼女の服は、普段着というよりも旅装。足下には荷物と長剣が2本。短剣や弓ならともかく、長剣を2本も扱うにしては細く見えるその姿は凛としていて、夜のような静けさがある。
「………て」
 しばらくの沈黙の後、彼女は口を開き、顔を上げた。
 何かを思い詰めたようなその瞳は闇の色。明かりの反射から、潤んでいるのが分かる。
 聞き取れなかったエマは、きょとんとしてルーラの方を見た。
「……」
 もう一度口を開く。
 今度はハッキリと聞き取れた。
 このような静けさがないと聞き取れないような、静かで小さく、震えた声で。
 一筋の涙と共に。
 たすけてください。と。

 礼拝堂に居座るわけにもいかないので、小さな個室に場所を移す。
 白一色のその部屋。明かり取りの天窓からは、とても明るい月明かりが差し込んでいる。
 エマは明かりをつけ、席を促し、相談者との話を書き記す記帳を取り出す。
 その行動におとなしく従いつつも押し黙っていたルーラは、しばらくして再び口を開いた。
「別に、おかしいと思ってもらってもかまいません。聞くだけでも結構です」
 そんな言葉を呟く彼女の目は、相変わらず下を見つめたまま。そして、ぽつりと続ける。
「わたし…心を奪われたんです」
「心、ですか?」
 彼女の返答にルーラはこくりと頷く。
 エマはしばし、悩む。
 心を奪われたとは、果たしてどういう意味なのか。
 そうして数秒考えた結果
「恋のなや…」
「ちがいます」
 きっぱり即答で否定され、エマは言葉を詰まらせる。
 ルーラはそんなエマを上目遣いに見上げ「あなた、天然ですか?」とかちょっと冷たい言葉をかける。
「それは…よく言われますわ」
 しばらくエマを見ていたルーラは、視線を下に戻し、話を続ける。
「これは恋、とかそんなヤサシイモノじゃなくて…。さっき言った通り『奪われた』んです」
「奪われた…」
 エマは言葉を反芻する。
 ルーラはさっきも「奪われた」と言った。奪うとは、相手の同意を得ないまま強制的に持ち去るようなもの。
 でも、短時間の接触とはいえ、彼女に心がないというのはとても難しい。
 では、誰が、何のために?
 そう訊ねようとした。
 しかし、エマが問いかけるより先に、彼女は苦しそうに答えを呟いた。
「悪魔…『ルーラ』に…」

「ルーラ…?それは貴方の――」
「そう、私の名前、ね」
 突然科白をさえぎったその言葉で、エマの言葉と視点が凍りついた。
 その視線の先。そこにはルーラが居るはずだった。
 彼女は確かに、居た。
 今も少し俯き加減で座っている。その姿勢には何ら変わりはない。
 ―――外見を除いては。
 月光の色をした髪は新月の色に。半分ほど伏せられた闇色であるはずの瞳は紅。
 雰囲気も先ほどとは全く違う。まるで正反対。
 ほんの、瞬きをするほどの間に、彼女の外見、雰囲気、すべてが変わってしまった。

 彼女が顔を上げた。
「…あの子ったら、こんな所に来たの?」
 周囲を見回し、前髪を掻き上げながら溜息混じりにそう呟く。
 声も先ほどの少女とは異なり、とても甘くて、冷たい。
「………」
 エマは声が出ない。
 こんな事があり得るのだろうか。
 確かに目の前には「ルーラ」と名乗った少女が座っている。
 顔形や髪型、服装は全く同じ。しかし、先ほどの少女とはまるで別人。
 エマが呆然としてその様子を見ていると、ルーラは彼女に視線を止めた。
 目が合う。
 先ほどの潤んだ瞳とは似てもにつかない、紅を凍らせたようなそれと見つめあう。
 そのまま数秒が過ぎたところで、ルーラは突然、クスリと笑った。
「貴方、月の神官ね」
「えぇ…」
 混乱したまま、やっとの事で返事をする。
 ルーラは「ふぅんやっぱりね」と呟いて、もう一度訊ねる。
「ねぇ、月の神官さん。この子は貴方になんて名乗ったの?」
「………ルーラ、ですわ」
 その名を聞きいた彼女はまた、小さくクスクスと笑う。
「『ルーラ』……そう。あの子はそう名乗ったのね。でも、」
 ぴたりと笑うのを止めた彼女の目が、冷たく光る。
「さっきもあの子が言った通り、『ルーラ』は私の名よ」

                         [To be continued later...]

本当は、別に考えていたお話の世界に伝わる伝承の一つだったものです。
「月の神官」と「悪魔に心を奪われた少女」の二つが統合されております。
これはしばらく続くと思われますので、のんびりとお付き合いくださいませ。

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