六月の話。

 今日、三浦なぎさは振られました。

 時間は朝。
 外は雨。
 予鈴のチャイムが鳴り響く。
 屋上へと続く踊り場は薄暗くて。
 勇気を出したその言葉は。
 簡単に笑い飛ばされた。

 神様。私は雨なんて大嫌いです。

 □ ■ □

 雨が降っている。
 朝はあんなに晴れてたのに。
 ……天気予報の嘘吐き。何が「今日は梅雨も中休み、いい天気に恵まれるでしょう」ですか。確かに朝は晴れてましたよ? でもこんなに暗い空。弱いとはいえ空から落ちてくる雫は、誰に聞いても雨という。
 仕方ないな、歩いて帰るしかない。
 は、と小さく息を吐いて、屋根の下へ一歩足を踏み出す。
 傷心にずぶ濡れ。これで風邪をひいたら笑いものだなぁ、なんて。
 ぼんやりと空を見る。
 雲が、無かった。
「ぇ」
 雲だけじゃない。空も無い。上げた顔に当たる水滴も無い。
 あるのは、雨が布地を打つ音と。深い深い、青一色。
 ざり、という靴が濡れた土を踏む音の方へ振り返ると、男の子が立っていた。
 背の低い私には、雨が小さく跳ねる布地に遮られて相手の顔は見えない。
 ただ、制服から男の子だ、とだけ判断する。
 思わず動きを止めた私と彼。お互い無言で佇む事しばらく。
「――これ」
 と。それを差し出してきた。
 よく分からないままに、差し出されたものを反射で受け取ってしまう。
 これが傘で、これが無いと相手が濡れてしまう事、どうして貸してくれたのか。
 そんないろんな事に気づいたのは、その人が音を立てて走り去って行った後だった。

 □ ■ □

 次の日。
 傘の主は、学校についてすぐに予想がついた。
 朝のホームルーム前の喧騒に紛れて聞こえてきた、雨の話。
「俺、昨日傘持ってくるの忘れてたからな。濡れて帰ったらさ――」
「ぁ、オレもー」
「あれ? 二宮。お前は傘持ってきてただろ? 何で濡れて帰る必要があんだよ」
「ぁー、そうだったっけ?」
 そんな他愛もない会話。その中でただ一人、傘を持ってきたのに使わずに帰った人物。彼本人でなくても、可能性は、高い。
 二宮君、か。

「あの……二宮、くん」
 あれからせめて確認だけでもと機会を探して、あっという間に放課後。
 部活に行く前にでも、とがんばった結果、荷物を鞄に詰めている彼にやっと話しかけることができた。
 緊張しながらかけた声にも、彼はきわめて普通に「どうしたの?」と振り向いた。
「あの、傘……」
「あぁ、うん。濡れずに帰れた?」
 その返事で、やっぱり彼だったんだと確信する。
 同時に、お礼を言わなきゃとか、どうしてそんなことをしたのか、濡れて帰って大丈夫だったのか。といろんな事が頭をぐるぐる回りだす。そんな頭でようやくまとまった言葉は「大丈夫だったけど、」だった。
 そして、「二宮君は濡れて帰ったんでしょう?」という言葉出す前に。
「落ち込んでる時に濡れて帰ったりしたら、それこそ風邪ひいちゃうからね」
 彼はふわりとした笑顔で、そう言った。

 言葉が詰まる。
 今、何と?
 落チ込ンデル時?

「でも、大丈夫そうならよかっ――」
 そんな言葉を遮って、持っていた傘を押し付けるように渡して、
「傘、ありがと」
 最低限の言葉だけで、会話を打ち切り。教室を飛び出した。

 教室を出て、靴箱へ向かいながら考える。
 どうして、彼は、私が落ち込んで居ることを知っていたのだろう。
 私が振られたあの瞬間を見られていたのか。
 その後しばらく立ち尽くしていたところを見られたのか。
 それ以外の場所では、普通に振舞っていた自信があるから、それ以外には……。
 一体、いつの間に。
 あんな私、誰にも見せられたもんじゃない。
 それを見られていたのなら。それ故の同情なら。

 知られていたことに驚いて。
 知られたことが恥ずかしくて。
 その事実が腹立たしくて。

 理不尽だと分かっていても。苛立ちは収まらなくて。
 その日はまっすぐ家に帰って、ベッドの上で落ち込んでみた。

 □ ■ □

 次の日。
 学校へ行くと、靴箱のところに二宮君がいた。私を見つけた彼は、ちょっとだけ躊躇ったかのような仕草をして、靴箱へたどり着いた私へ声を掛けてきた。
「あの、昨日はごめん……。オレ、何か気に障るようなこと言ったかな……」
 あぁ、この人は気づいていないんだ。
 自分が何を言ったのか、それがどんな事だったのか。

 私に答えるつもりがないことに気づいたのか。彼は、靴箱から廊下へ出た頃にはすっかり黙ってしまっていた。
 ただ、中途半端な距離を保ちながら、教室へと向かう。
 私より少しだけ後ろ。話しかけるには遠く、他人には少し近い。そんな曖昧な距離を保ちながら廊下を歩く。
 そのまま教室に入り、それぞれの席へ着く。
 二宮君は何も言わなかった。
 私も、何も言わなかった。

 席について。朝のホームルームを終える。
 再びざわめきだす教室で、私はただぼんやりと椅子に座っていた。
 彼の方をちらりと見ると、クラスの男子数名と話をしていた。
 しかし、心なしか元気が無いように見えるのは、私のせいなのだろうか。

 あっという間の休み時間の終了を告げる、一時間目の教師が廊下を歩く影に気づいたクラスメイトがばらばらと席に向かう中。
 少しだけ、申し訳ないような気がした。

 □ ■ □

「なぎさ先輩ー」
 元気なさそうですね何かあったんですかー? と声を掛けられたのは掃除時間の事。
 中庭の掃除をしていた私は、箒の手を止めて声の方へと顔を上げる。
 視線の先には視聴覚室。その窓から顔を出してこっちを見て居るのは、中学校からの後輩。吉良ちゃん。
 きぃちゃん、とその名前を呼ぶと、彼女はちょっとだけ声を小さくして言葉を続けた。
「そういえば先輩、諌原先輩に告白したって本当ですか……?」
 手が止まった。きっと、表情まで止まってるに違いない。
 きぃちゃんはそんな私を見て、慌てて「ごめんなさいっ」と小声で謝ってきた。
「それ、誰かに聞いたの……?」
 もしかしたら見ていた人が言っていたのかもしれない、と昨日の二宮君の言葉を思い出しながら尋ねると、彼女は歯切れが悪そうに「ぃゃ、」と呟いた。
 そして、周りの人に気づかれないよう、少しだけ窓から身を乗り出し、箒を持っていないもう一方の手で軽く手招きする。
 その手に招かれるように、竹箒を両手で握り締めて耳を寄せる。
 そして、きぃちゃんはそっと、その事実を伝えた。
「誰かに聞いた、というか……ですね。諌原先輩自身が話してるのを聞いちゃったんです」

 その言葉の意味が、しばらく分からなかった。
 どういうこと? と聞くと、そのままなんですけどね、と前置きされての返事。
「笑いながら話してたんです。その声が大きくて、たまたま聞いちゃって。あぁ、なぎさ先輩の事かな、って……」
 彼女の話を聞くに連れて、箒を握る手に力が入る。
 一昨日の、あの返事を思い出す。
 掃除終了のチャイムが、朝の予鈴と重なる。
 その余韻が消えた後も。教室へと戻るきぃちゃんを見送った後も。私はしばらく、そこから動く事が出来なかった。

 □ ■ □

 ホームルームも終わり、部活動の時間。
 とはいっても、今日の私にやる気など無く。ただ黙々と今日の練習メニューをこなしていく。いつものように、ファゴットを組み立ててチューニングをしてロングトーンをして。そして指慣らしにと、簡単な練習曲をやっていく。そんな私の横で、スティック片手に机でリズムを取っていた岩永君が「なぁ、三浦」と、声をかけてきた。
 楽器の手を止めて振り返ると、彼は楽譜に目を向けたまま答えた。
「音、いつもと違う」
「ぇ?」
 思わずリードから口を離す。
 そんな私を少しだけ見た岩永君は、再び楽譜に視線を戻しながら「なんというか。音が暗い」とまっすぐに指摘した。
 返す言葉が無い私に、彼は「そんな調子だから、気づかれるんだよ」と小さくつぶやいた。
「気づかれる?」
 その小さな呟きを反芻すると、「そ、」とだけ頷いてスティックで机を叩く。そして、有る程度楽譜を進めたところで再び音を止めて。やっぱり楽譜を見たままで「二宮がな、」と言葉をつないだ。
 二宮君。その名前に、思わず楽器を握る手に力が入る。
 しかし、岩永君はそんなの気にかけずに話を続ける。
「心配してたんだよ。三浦がなんか元気なさそうな気がする、って。俺はいつも通りに見えてたんだけど、あいつはずっとそう言い張ってたよ」
 返す言葉がない。
 岩永君は、そのまま言葉を続ける。
「あいつがそう言うんならそうなのかなぁ、って思ってたけど、音聞いて分かったわ。うん、お前落ち込んでるだろ」
 なんていうか、音が暗い。と。
 彼は簡単にそう言った。

「なんで?」
「ぁ?」
 しばらくの間をおいて、私はぽつりとそう言った。
 岩永くんの返事を軽く聞いて、私はそのまま質問をする。
「二宮くんは、どうして私が落ち込んでるって分かったのかな」
 どうして落ち込んでるかは言わない。ただ、なぜ分かったのかだけを。
 それに関する答えは、とても簡単だった。

「そんなの知らないよ。二宮に聞け」

 □ ■ □

 次の日の朝も、二宮くんは靴箱にいた。
 時間は少し早め。生徒の数もまだ少ない。
 今日は雨。彼は紺色の傘をさして。
 傘で隠れた顔は見えない。

 そんな彼の前で、少しだけ距離を空けて、立ち止まる。
 昨日の夜、いろいろ考えた言葉。私が彼にとった態度は、きっと勘違いだらけのもので。それ故に、私が落ち込ませてしまったこと。それらに対する、謝る言葉。
「二宮くん」
 雨が傘を叩く音に消されないように、少しだけ大きめの声。
 彼が傘を上げる。
 それから少しだけ困ったような顔をする。何と言ったらいいのか分からないような、申し訳ないようなそんな顔。何か言いたげに口を開けて、でも何も言わない。
「ごめんね」
 そんな彼に、私から声をかけた。
「ごめんね、その……私の勝手な勘違いなんだ。ぉ、落ち込んでたのはホントで……でも、それを隠してた自信はあって。なのに、ぴったり当てられちゃったから……ついカッとなっちゃって……」
 声が雨の音に負けそうになる。
「だから……、ごめんなさい」
 傘に隠れて、彼の顔は見えない。けど「こっちこそ、三浦さんのキモチも考えないで……ごめんね」という言葉は、雨の音にかき消されることは無かった。

 □ ■ □

「そういえばさ、二宮君」
「うん?」
 靴箱から教室へと向かう途中。私はぽつりと疑問を口にした。
「なんで、私が落ち込んでるって思ったの?」
 そういえば、そこを聞いていなかったなという、何気ない疑問。岩永君に聞いたって、教えてくれるはずはない。直接本人に聞くのはちょっと勇気がいるけど。それでも聞かずにはいられなかった。
 そんな質問に、二宮君はあっという間に答えを出した。
「ぇ、だって三浦さんだもん」
「ぇ?」
 と、思わず足を止める。彼も、2,3歩先で足を止めて、軽く振り返る。
 それは、私は感情が表に出やすいと言うことか。いや、それは昨日の岩永君の言葉で違うと証明できる。岩永君が格段鈍い人だったらダメだけど。じゃぁ、どういう事ですか。
 なんてぐるぐる考えていると、彼はあの時と同じように、ふわりとした笑顔で口を開いた。

「三浦さんだから。どんなに笑ってても、落ち込んでれば何となく分かっちゃうんだよ」

 だから、それはどういう意味ですか?

一月に一つ、その月にあったお話を。
遅ればせながら、六月です。雨です。傘です。ブロークンハートです。(何
たまにはこう、勝ち負けはっきりしてないような話を。気が向いたら少し書き直すかもしれませんけど。最初は相合傘を書きたかったんですよ!w
まぁ、いつかリベンジでも。w
それではまた来月。