三月の話。 -Side2-

 じっと。目の前にいるのが誰かを確かめるように、ちょっときつめの黒い瞳が、私の顔を見つめる。後ろに下がろうにも、スカートは彼が落ちてきた拍子に踏みつけられたまま。
 そんな状況で、私はふとクラスの子から聞いた話を思い出した。曰く、木の下には思いを遂げられなかった人の身体が埋まっていて。その幽霊はその場に留まっていて。そして。近づく人を捕らえてしまう。
 この、時代の古い服。重さを感じない身体。これは間違いなく。
「……」
 目の前の少年が口を開く。私は目を離せないまま、びくりと身体を揺らす。私はこれから何をされるのか。やっぱりどこか暗いところに引きずり込まれるんだろうか。と嫌な想像が頭をぐるぐる回る。が。続いた言葉はさらにわけの分からないものだった。
「一葉?お前がどうしてこんなところにいる?」
「……はぃ?」
 何を言われたのか分からなかった私に、彼は一瞬戸惑った顔をして詰め寄り、私の顔をぐいっと持ち上げた。
「一葉……お前。泣いてんのか?」
 今まで何処と無く強気だった顔つきが、途端に弱ったものになる。
 持ち上げた手を頬に押し当て、指で目元に残った雫を拭う。
「何があった?光成に何か言われたか?それとも……」
 それとも何なのか。そこで彼は動きを止め、少しだけ身を引いた。
「……一葉じゃ、ない?」
 一葉というのは誰かの名前らしい。はい、と小さく頷くと、彼は「それはすまないことをした」と身体をどかし、櫻の幹に背を預けた。

 無言の時間が過ぎる。聞こえるのは遠いざわめきと、枝を揺らす風の音。
「さっきの、悪かったな」
 その呟きは小さく。私は「ぇ、」と聞き返すしかできなかった。
 彼は拗ねたように顔を背け、「乳姉弟に、似てたんだ」とだけ口にした。
 その拗ねた横顔がなぜか先輩と重なった。途端に胸がずきりと痛み、そのまま締め付けられるようなせつなさが続く。それは思った以上に辛くて。あっという間に目の前の少年に対する恐怖も混乱も飲み込んでしまい。私はその場に座ったまま、声を上げて泣き出した。

 私はどれだけ泣いたのか。気が付けば、相当困った顔をした少年に抱きしめられていた。
「あぁもう、泣くな。何があった?辛いことがあったなら、全部聞いてやるから話せ」
 本当に困ったような声。でも、同時にとても安心できるそれ。私はその言葉に甘えて、これまでのことを彼に話した。
 私とずっと仲良くしてくれた先輩。話しかけられたり、名前を呼ばれたりするだけでとても嬉しくて。でも、自分が先輩を好きだという感情にはまったく気付かなくて。先輩が卒業していなくなってしまうと気が付いて始めてこの気持ちを自覚して。気付くのがあまりにも遅かったゆえに、誰にも相談できないままで。昨日やっと告白しようと決心したのに、部室で仲良く手をつないでいる先輩を見たこと。そしてその人が彼女だと紹介されたこと。
 全部話して。いっぱい泣いて。その間も彼は、何も言わずに受け止めてくれた。
「そっか。気持ちを伝えられなかったのか。気持ちを伝えられないのは、確かに悔やまれるな」
 そして、自分も気持ちを伝えられないままここにいる、と、自分の話をしてくれた。

 彼が想いを寄せていたのは、幼い頃から一緒に育った乳姉弟。一緒に育ち、一緒に遊び。彼女は自分の女房だからと身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれて、あまりに近い存在だったから、居て当然だという感覚で。自分の気持ちに気が付いたのは、親友の光成が突然行方知れずになった時。毎日のように彼を探し回ったけど見つからず。そのショックのせいか、彼女が病に倒れてしまって。彼女も親友のように戻ってこなかったら。居なくなってしまったら。そこまで考えて、初めて気が付いた。と。

「なのに、」
 私を抱きとめた手に少しだけ力を込めて。
「あいつは、一葉は。そのまま目を覚まさなかった……」
 悲しみを堪えるように肩を落とし。だから、俺はあいつの好きだったこの櫻の下で過ごすようになって、気が付けば身体なんて朽ち果てていた、と力ない声で呟き、黙り込んだ。
 私は何も言うことができない。ただ、温度も重さも感じない身体に、ぬくもりと抱きしめる力を感じる。それはとても不思議な感覚。
「……なぁ」
 その声はまだ力なく。でも、何か決意したような声。
「俺、今までこうしてあいつを抱きしめてやることなんて無かったんだ。素直に気持ちを伝えるよりも先に口からでるのはからかいの言葉ばかりで。この櫻と過ごすようになってから、この木に迷い込む気持ちを知るようになって。この櫻が迷った気持ちを溜め込んで紅く咲く度に、もっと素直に言えたらよかったなんてどうにもならない後悔して」
 だからなんていわないけど、と言葉をつないで。
「今ここで、俺の気持ちを聞いてもらえないか?」
 私はただ、頷く。
 彼はしばらくなんと言うべきか、と悩むように黙っていたが、腕にもう少しだけ力を込めて、口を開いた。
「一葉。俺はお前に感謝してる。子供の頃から一緒に居て、身の回りの手伝いをしてくれたり、俺のわがままを聞いてくれたり……他にも、覚えて無いことが多いけどとにかく感謝してる。俺はお前に、一葉に。ずっと一緒に居て欲しいと思ってるし、その。お前のことをとても愛しいと思ってる」
 ゆっくり。それでもはっきりと口にしたその言葉。それはどこか遠いところへ向けたもの。
 彼女に届いたのだろうか。やっと迷っていた想いを導いてやることができたよ。感謝する、と彼がため息と共にそれを口にした時、今まで感じていたぬくもりが薄れた。

「もし、お前が一葉や光成に会うようなことがあったら、またいつか会おうって伝えておいてくれないか」
 紅く綻ぶ櫻の枝から、そんな声を聞いた。

 □ ■ □

 しばらく呆然としていて、気が付けば辺りはすっかり暗くなっていた。
 紅いつぼみをつけた櫻を見上げ、
 「会ったら伝えておくね。私の話を聞いてくれてありがとう」
 それだけを残して、櫻に背を向けた。

 これからもここは、お気に入りの場所で。
 時々は迷い込んだ気持ちに出会いながら過ごすんだろうな、なんて考えながら。

一月に一つ、その月にあったお話を。
三月です。こちらはちょっと性格捻くれ気味の少年。
それでも、時間が経てば素直な気持ちを出せるらしいですよ?さて、ここで残る疑問は、この櫻はどうして迷った気持ちを溜め込むようになったのか、ですね。
いつか続きというか番外でかいてみたいものです。
ではまた来月。