二月の話。

 目が覚めた。
 カーテンを開けて、制服に着替える。袖を通すシャツもズボンもひんやりとしていて、嫌でも目が覚める。やっぱり暖房をつけてから着替えるべきか、とか本気で考えてみたりもするが、暖房をつけたら最後、そのまま寝ぼけて学校へ行ったという経験があるため迂闊には実行できない。
 目が覚めた、といっても頭のどこかはまだ眠っているらしい。何処と無く気だるい体を動かして朝食の席へと向かう。今日のメニューは目玉焼きにトーストかな、と匂いだけで判断してみたりもする。台所にはエプロンをつけた母の後姿。ダイニングには朝のニュースをまくし立てるテレビとそれを聞きながら新聞を読む父。それからまだ眠そうな頭の妹。まぁ、日常といえば日常の風景。
 カレンダーは2月13日。日めくりカレンダーの薄い紙の向こうに「バレンタイン」という赤い文字がぼんやりと浮かんで見える。そうか。明日はそんな恋人同士のためのイベントなわけだ。しかし、これまでそんなイベントの渦中に居た事は無い。彼女が居た事もあったけど、この時期には必ずと言っていいほど別れてしまっている。だから、どちらかといえばクラスの女子がばら撒く、一ヵ月後には倍になって彼女達に返ってくるという見事な仕掛けを持ったお菓子……所謂「義理チョコ」の犠牲者になる程度だ。
 蒼いクッションの置かれた椅子に腰掛ける。目の前には目玉焼きとトースト。テーブルの中央にはジャムとマーガリン。そのマーガリンを手に取ろうとして動きが止まった。こんな日常の風景に、異質なものが紛れ込んでいた。
 糸。そう、何の変哲も無い、ただの糸。
 それだけだったらただの糸くずで済ます。けど。それが赤くて子指に結び付けられていたら。
「どうしたのお兄ちゃん」
 横から妹が不思議そうな声を上げ、マーガリンをこっちによこす。彼女の指にも、赤い糸。何事も無いかのようにマーガリンを受け取り、パンに塗りながら父と母も見る。その手にはもちろん、糸。俺と妹と父と母。全員に糸が付いている。とても鮮やかな赤い糸は、誰にも、何も絡まることなくまっすぐに伸びている。父と母の糸はお互いを結び、俺と妹の糸は玄関の方へと伸びていた。
 赤い糸か。そんなのが見えるようになるなんて。と。頭はまだ寝ぼけているらしい。ありえない現象をあっさり受け入れてしまった。いつもだったらすぐにはさみで切ろうとするんだろうな、と小さく笑いながらトーストを齧る。
 テレビでは明日のバレンタインへ向けての特集をやっていた。『小指を結ぶの赤い糸の相手、その絆を深めるためにこんなチョコレートいかがでしょう』と、女子アナがチョコレートを紹介している。もう1人のメインキャスターと一つ二つ口へと運びながら『これ美味しいですね』だの『こんなの貰ったら彼氏は喜びますよ』だの喋り、そのまま占いのコーナーへと移っていった。
 ……ぁ、俺最下位だ。

 □ ■ □

 家を出て、いつもの通学路を通って学校へ行く。見慣れたはずの道は、赤い糸をあちこちに張っていた。蜘蛛の巣のように、なんて喩え方はしない。蜘蛛の巣なんて綺麗なもんじゃない。てんでばらばらに散らばっている。これが一番ぴったりだと思う。そんな糸の中を通り過ぎる人たちの小指から流れる糸は、やはり絡まったり引っかかったりすること無く。存在しないかのように流れていく。とあるサラリーマンはすれ違ったOLと糸が繋がっていたり。玄関先で見送りをする夫婦の指にもしっかりと結ばれていたり。この調子で行くと、俺も誰かと繋がっているのかもしれない。
 一際目立つ自分の糸。それはずっと目の前へ続いている。通学路をなぞるように、道しるべのように。しかし、それは学校の手前で違う方向へと向いていた。
 こうなると、何処につながっているかなんて予測が付かない。学校、では無いどこか。もしかしたら欠席してる人なのかもしれない。いろいろと無駄な推測をしながら教室に入る。教室もあちこちに赤い糸が張ってある。誰も気付かない鮮やかな赤を眺めながら教科書を取り出し、ふと考えた。
 どうして急にこの糸が見えるようになったのか。別に霊感があるわけでもない。不思議な体験だって無縁だった。なのになぜ。

 考えたって答えなんか出るはずも無く。あっという間に昼になった。「岩永ー。昼飯いこーぜ」と誘う二宮と一緒に食堂へ向かう。赤い糸の張ってある廊下を歩くと、色々と見えてくる。赤い糸が繋ぐ相手は異性ばかりじゃないらしい。ついでに言うなら年齢差も関係無さそう。とか。……まぁ、別にどうでもいいんだけど。と歩きながら自分の糸に目をやる。
 その瞬間。
 すれ違った女子生徒と繋がった糸が見えた。
 学校には繋がってなかったじゃないか、と思わず足を止めて、たった今すれ違った生徒を探す。彼女はすぐに見つかった。アップにまとめた肩までの髪。この学校の制服ではない、小柄なセーラーは妹と同じ……近所の中学校のもの。「入試の下見かな」なんて今の後姿を見送りながら呟く二宮。彼の言葉に曖昧な返事を返して彼女を見送りながら、今の少女を思い出していた。
 名前は知らない。でも、彼女の事は知っている。小さな事で喜んで、ちょっとした事で慌てて転んでしまう。そんな目が離せなくなるような。
 そっか。あの子なんだ。
 自然に頬が緩む。
 赤い糸が繋がって居るということは、いつかまたどこかで会うということ。
 その日を楽しみにしながら、待っていよう。
 そう考えているうちに。赤い糸はいつの間にか見えなくなっていた。

一月に一つ、その月にあったお話を。
二月です。バレンタイン風味です。
しまった。先月雪とか行ってた気がする、とか思ってみたりもしたのですが。バレンタインとのあわせ技一本で。w
この主人公、一度別の話に出てきています。過去話、って事ですね。はい。
ではまた来月。