ゆめ to うつつ
昔の私は、身体がとても弱かった。
風邪なんか日常茶飯事。外で満足に遊ぶこともできないほど、弱かった。
ある時熱を出して寝込んだ事があった。
高熱にうなされる日々。
それから覚めた自分の眼は。
異質なものへと変化していた――。
□ ■ □
私の目には、色んなものが映っていた。
本来ならば見えないもの。
本来ならば見えない人。
そんなものが、映っていた。
見えるようになったのが異常だと、最初に気づくべきだった。
見えるものを不思議がって、片っ端から口にしてしまったばかりに。
周りの人たちにとって、この眼は恐怖の対象となった。
子供たちは、気味悪がって石を投げ。
大人たちは、聞こえないように声を大にし、自分を話題に上げる。
「あいつの目、何みてんのかわかんないよな」
「アレに睨まれたら、呪われるってよ」
「あのお宅の子、見えないものを見るんですって――」
「まぁ、怖い……」
そんな会話は日常茶飯事。
母親も、そんな自分を何処か倦厭するように眺めていて。
会話なんて、ほとんど無かったことしか覚えていない。
母親が恐怖におびえた目で自分を見る度、己の目を呪った。
鏡に映る自分を見る度、その眼が嫌になった。
悲しい人たちだ、と思うと同時に、そんな境遇にした眼を嫌った。
この眼さえなかったら、自分はもっと幸せになれるはずなのに。
そんな感情に流されるまま、自分の姿が闇にまぎれる夜を待つ日々。
「こんな目、いらない」
そう考えて鋭利なナイフの煌きを眺める日々。
其の回数なんて、覚えていない。
□ ■ □
そんな日々にも、いつか限界がやってくる。
「――ばけもの」
ポツリと、母親がその言葉を口にした。
右手には、キラメクギンイロ。
それから堰を切ったように彼女はぼろぼろと涙を流し、私に掴みかかってきた。
がたん、という大きな音を立てて。あっという間に襟元を掴まれる。
右手のそれは、キレイナナイフ。
左手だけで襟元を掴み上げて。テーブルの向こう、ソファの上へ押し付けるように私を叩き付けて、彼女は泣いた。
泣きながら泣きながら。悲しい目を向けながら。
右手のそれで、キリツケル。
声は、出ない。
眼が熱くても、流れる液体が熱くても。
心がとても、痛くても。
ぎりぎりと押し付ける力はとても強くて。そんな彼女がとても怖くて。
とてもとても――哀しくて。
私は何一つ抵抗ができなかった。
そして、、彼女はそんな私に向けて罵りの言葉を浴びせた。
それは、これまで彼女が受けてきた「憐憫」と言う名の「侮蔑と中傷」。
これまで受けてきた悲しみを、全て私にぶつけてしまうまで、かなりの時間だったようにも、ほんの数分だったようにも思える。そして、その長いようで短い時間は。人を傷つけるための言葉を全て吐き出したのではないかと思えるほどの、彼女の言葉は。
「ごめんね」という、とても簡単で、とても重い一言で閉じられた。
その一言を聞いた時。
自分の 何かが。
ぷつり、と音を立てた。
□ ■ □
眼を開けたそこには、何も無かった。
誰も、居なかった。
何も、映らなかった。
ただ、果てしなく広がる空間があった。
けほ、と咳き込みながら立ち上がると。風が軽く髪を撫でた。
さっきまであれほど熱かった眼の熱は、嘘の様に消えていた。
消えた視界に傷跡だけを残して。
自分の眼には、何も無い世界が映っていた。
自分がこれまで居た世界を、自分で消してしまったことを、知った。
ぃゃ、もしかしたら世界自体は今でもあるのかもしれない。
私一人が、望む世界へと飛ばされたのかもしれない。
そんなのどうでもいい。
怖がる者、蔑む者。誰も居ない。
見えるものは、何も無い。
この世界には、何も。無い。
消えてしまった世界に、未練は無い。
ふ、と笑いが漏れた。
何も無いのがとてもおかしくて、くすくすと笑い続ける。
何もいない。でも、何も無いのが視える。
誰も居ない。でも、誰も居ないのが視える。
それがとてもおかしくて。
くすくすと静かに笑う。
傷ついた眼は、何も見えない。
でも。
世界は真っ白で、とても綺麗に視えた。
□ ■ □
どのくらいそこでそうしていたのか。
ふと視線を上げると、誰かが立っていた。
真っ白な世界に、二人きり。
ただ、その人を視上げる私と。
ただ、私を見下ろすその人と。
暫く無言の時が過ぎる。
背は頭ひとつ分高く、真っ黒な服に真っ黒な帽子。
背中でゆるく束ねてある長い髪はこの世界を照り写す、ブロンド。
髪を束ねる水色のリボンは、空のようで。
軽く腕を組んで立つその姿は、世界がとても楽しそうだった。
「貴方は、不思議な目を持っていますね」
深いグリーンの瞳を少し和らげて、その人は呟いた。
男性とも女性ともつかない、不思議な声。
思わず身構えた自分に、軽く笑いかけて「怖がらなくても何もしませんよ」と言葉を続ける。
「きっと、ここに来たのも其の眼のおかげですね。探していた人に会えて、何よりです。――と、突然ですが。僕は貴方を探していました。貴方、サーカスに興味はありませんか?」
その誘いは、唐突だった。
「――サーカス?」
ただ、鸚鵡返しに其の言葉を返すと、その人はうれしそうにひとつ頷いた。
「えぇ、サーカスです。とはいっても、ちょっと不思議なサーカス団でして。色んな種族、いろんな人がやってくる。そんな所です。貴方には、新しく作るサーカス団をまとめる役をお任せしたいと思うのですが」
いかがですか? と、軽く首を傾げられる。
サーカスと聞いて思い出すのは、幼い頃――まだ、この眼を持つ前の思い出。
大きなテントの中で繰り広げられる。楽しいひと時。
玉乗りのピエロ。
大きな獅子を操るビースト・マスター。
ドールのダンス。
人々の笑い声。
あの頃の笑顔が、今ではとても遠く感じる。
友人と、母親と、周りの皆と。
笑いあった、あの時間。
あの頃に、戻れるような錯覚。
自分は、いつの間にか頷いていた。
その人は「そういってくれると思いました」と眼を細めると、するりと自分の髪を束ねていたリボンをはずした。
解けた髪が、かがんだ拍子に滑り落ちる。
その髪を見ていると、其のリボンを持った手は私の頭の後ろへと回された。
「其の傷は――忘れようにも残ってしまうもの。だから、こうやって隠してしまいましょう。大丈夫。貴方の目はこんな布なんかに遮られるものじゃありませんから」
そう言いながら、リボンを目隠しのように頭の後ろで結ぶ。
結び終わると同時に、す、っと身を引き、再び私を見る。
その人の言うとおり、目隠しされていることなど分からない。
世界はきちんと視えている。目の前に立つ人物も。
そして、その人はふと、口元に手を当てて「――其の身体の弱さと記憶も、邪魔ですかね」と小さく呟いた。
其の言葉の真意を理解する前に、頭に手を当てられる。
それから、変わらぬ笑みを崩さぬままに。
「これらは、私が預かっておきます。――といっても、もう必要の無いものでしょう。夢に見ることくらいはあるかもしれませんが、見たことも覚えてないほどの些細なものです」
そんな言葉をかけられて、頭から離れた手には、小さな本がひとつ。
それを大事そうに抱えたその人は、逆の手で私の身体を軽く、押した。
ぐらりと空へ移り変わる視界。
風を切る感覚と、浮遊感。
遠くなっていく空を眺める視界に、声が響く。
「サーカス団の名前は『幻想曲芸団』でいかがでしょう。では。頑張ってくださいね――」
□ ■ □
気が付くと、朝だった。
ベッドから身を起こし、いつものように顔を洗う。
タオルで水気をぬぐうと、目の前の鏡に視線を向けた。
――消えない傷の入った、ブルーの眼。
それがどうして付いたものなのか、視力が失われてもおかしくない傷なのになぜ視えるのか。ふと、不思議に思う。
でも、それも一瞬のこと。
すぐに、いつものように手元の布で眼を覆い、頭の後ろでしっかりと結ぶ。
鏡の中の自分は、穏やかな笑みを浮かべている。
鏡に向かって笑いかける自分へ背中を向けて、廊下へ続くドアをくぐる。
さぁ、今日も一日、楽しくやりましょうか。
皆に笑顔を振りまくために。