兎姿物語

「あの子は異形の者だ」
「ほら、二の姫ですよ。見てご覧なさい、あの真っ白な髪と肌、それにあの真っ赤な目」

 血の繋がっていない兄弟姉妹に周りの女房達。彼らが私のことを陰で「兎の君」なんてささやいているのはよく知っている。父上は私が物心付いた頃には居なかった。母上は病に弱く、床に伏せってばかりだ。父上が居ない事や母上の病でさえも、物の怪憑きの私が悪いのだと、屋敷の者は噂する。
 そして、私の部屋には今日も人は訪れない。部屋にいるのは脇息にもたれかかってとつとつと時間を過ごす私と、身の回りの世話をしてくれる女房の伊勢。二人だけ。後は。母親が違うと言うのに、私と唯一普通に接してくれる兄が訪れない限り変化はない。起きて、ご飯を食べて、母上を見舞って。後は伊勢と二人で貝合わせをしたり、絵巻物を読んだり。そうして床につく。この繰り返し。
 正直、つまらない。
 同じような毎日もそうだが、部屋の中にいるというのも退屈なものだ。
 だから、ほんの少しだけ。外へと出てみた。
 人に姿を見られたら物の怪だと言われる可能性があるのは百も承知。だから髪を高く結って、市女笠を深くかぶって。垂れ絹もしっかりと。鏡の前でくるりと一回転。大丈夫。ばれやしない。

 □ ■ □

 塀の穴から抜け出して屋敷を一歩出ると、そこは一直線に伸びる白い壁。
 一人で屋敷を出るのは初めて。それは屋敷の中ですら把握していない私にとっては未知の未知。とても大きな世界。とりあえず壁に沿って歩く。道があるからにはどこかへ繋がっているはず。自分が来た道さえ覚えていれば、いつでも帰れる。注意すべきは曲がり角と時折すれ違う人や牛車。自分の姿が見られぬよう。帰り道を見失わぬよう。

 賑やかな市へ出るかと思った道は、逆に人通りの少ない所へと繋がっていた。
「川辺、か。少し此処で休むのもいいかな」
 涼やかな風が吹くその場所。疲れた足を止めるのには、十分。
「   」
 腰を下ろそうとしたその時、川のせせらぎに混じって声がした。
 それはとてもとても小さな声。気のせい、と一蹴してしまってもいいような、本当に微かな。でも、それはなんだか放っておけない響きも混じっていて。つい、耳を澄ましてみた。
「おいで」
 微かな声は、今度はハッキリとした形を持った。それは確かに、誰かを呼ぶ言葉。
「おいで、おいで」
 ただ、繰り返される。そして、少しずつ近づいてくる。
「さぁ、そこの赤い瞳のお主。おいで」
 びくり、と肩を揺らす。赤い瞳。それは紛れもなく私のこと。姿のない声の主は、どこからともなく私の姿を言い当てる。笠をさらに深くかぶっても、効果はない。
「周りの者から蔑まれるのは嫌だろう?ほら、そのまま川に飛び込んでしまえばすぐ楽になる。容姿をとやかく言われることもない。境遇もお主のせいにはされぬよ」
 ほら、水底の世界へおいで、と誘う声。
 この姿をとやかく言われることもない、母上の病気も、父上が居ないことも、私のせいにされることだってない。なんて。とても甘い誘い文句を耳に吹き込む。
 ふらりと足を進ませて、水面をのぞき込む。水面に落ちて水を吸った垂衣が笠を引きずり込んで、私の姿を見せつける。そして私は思い出した。
 私の姿は人とは違う。
 生まれついてのものとはいえ、一点の曇りもない真白い髪とツツジをさらに濃くしたような真っ赤な瞳。それはまるで兎のような。
 そっか。
 小さく思う。兎の君なんて呼ばれても仕方のないこの容姿。それは異端。
 そりゃぁ、私だって緑なす黒髪と射干玉のような瞳であれば、なんて思った事が無いわけではない。いつもにこにこと世話を焼いてくれる伊勢を見てうらやましいと思ったこともある。
「そうだ。異端のお主には似合いの世界だ。こっちの世界にくれば、母の病も良くなるかもしれぬぞ」
 この一言は決定的だった。
 母上の病。もしかしたら本当に、周りの者が言うように私のせいかもしれない。
「さぁ、おいで」
 水面からするりと手が伸びてくる。
 前にかがんで、その手を受け入れる。
 気はとても楽だった。
 ひやりとした指先が、頬に、触れた。

 次の瞬間、襟首をものすごい勢いで引っ張られた。
 何が起こったか分からないまま、視界は水面から青空へと変化した。
「馬鹿かおまえは!」
 呆然とした私に叱咤するのは、少年のようだ。ただ、逆光で顔が見えない。
 しかし、その声と匂いには覚えがあった。
「あに、うえ?」
 一つ年上の兄上。何で彼がこんなトコロに?
「二の姫、突然おまえの母君が私を呼び出して、此処へ行くように言ったのだ。そして着いてみればお前が水面に身を乗り出して!」
 ……あぁ、なるほど。
「全く、あわてて引き戻したから良かったものの。あのままではおまえがこの場でさまようことになるところだったぞ?……己の命を絶った者は、他の誰かをそこに引き込まないとその場から動けぬと言う話だし…おまえを水底へ引きずり込もうとしていたのは…」
 呆れたように解説するその姿に感じたのは安心か、それとも蘇ってきたさっきの恐怖か。きっと前者に違いないと思うと同時に、穏やかに流れる雲が浮かんだ空が潤んだ。

 □ ■ □

「結構幼い頃の話だが、お前の母君から聞いた事があるのだ。その姿の原因」
 穏やかなせせらぎを聞きながら、兄上がつぶやいた。
 もう、日は沈みかけ、水辺に座り込んだ私と兄上を赤く染める。
「母君によると父君は鶴で、その母君は梅の精だった、と。おまえの母君は霊力が強いから、それらをすべてお前に受け継がせてしまったと。当時は私も幼かったからお伽話代わりに話したのかもしれないが」
 幼いからこそ本当のことを話したのではないかという気もするのだ、と兄上は笠の上から頭をぽんっとたたいて立ち上がった。
「別に、お前の姿は物の怪のせいでもなんでもないよ。周りには好きに言わせておけばいい。気を強く持て」
 そういって笑う兄上は、夕日に照らされて真っ赤に染まっているように見えた。

「さ、帰ろう」
「…はい」

 夕暮れに並ぶ影は、自分の色なんか気に出来ないほど黒く染まっていた。


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