放課後の楽しいひと時、部活動の時間。私は教室を飛び出して廊下を走っていた。
			 目指すは学校の端にある小部屋。
			 2分とかからずにそこに辿り着き、勢いで扉を開ける。小さなその部屋にはテーブルとソファ。それから小さなガスコンロと戸棚。ここは元々、用務員さんが居た部屋だという。そして今は、私が入部したくてしょうがない部活動の部室でもある。
			 そして、その入部動機はソファの上で仰向けに眠っていた。そんなに長くも短くもない、軽そうな色の髪。ラフに着こなした制服。眼鏡はかけっぱなしで、左腕がだらりとソファから落ちている。彼が唯一の部員、恭介先輩。
			「お茶にしましょうよ、先輩」
			 私が声をかけると、先輩はゆっくりと目を開けた。
			「んー……?あぁ、もうそんな時間か」
			 そう呟いて、先輩は気だるそうにソファから身を起こし、前髪を片手でかきあげながら眠そうな目を私に向けた。
			「よし、神名川。紅茶入れるからそこに座ってろ」
			 と、ソファを指差し、先輩はやかんに水を汲み始めた。
 私はそんな先輩の後姿を眺めるのがとても好きだ。どうしてか、といわれると悩む。凄く悩む。窓から入る陽光に透けた髪の色とか、湯気で曇った眼鏡をはずす仕草だとか、そんなのではない。特に理由なんてなくて。ただ、その後姿が好きなんだ。
			 そして、先輩の入れる紅茶はとても美味しい。普段は砂糖やミルクを入れる私でも、先輩の入れてくれた紅茶だけは、入れてくれたそのままで頂く。
「先輩?」
			 片手をポケットに突っ込んだままタイマーを眺める先輩の背中に声をかける。それはいつもと同じ言葉、同じ問い。
			「ん?」
			 そして、同じ返事が返ってくるのも分かってる。
			 でも。
			「私、この部活に入っちゃだめですか?」
			「駄目だ」
			 振り向かないままの先輩。その答えに自分が落胆するのも分かってる。それでも。聞かずに居られない。
			 少しでも近くに居て、この時間を共有していたいから。
 そして、いつものように温かい紅茶が目の前に出される。
			 カップを手にとって、一口。
			 さっきの落胆を奥底に落としてくれる、温かい味。
			 ほっと一息ついて、他愛もない話を始める。
			 そんな、ゆったりとした時間に、今日は変化があった。
			 控えめに響く、ドアの音。
			「あの、」
			 そこに立っていたのは、同級生の女の子。
			 彼女は背中にかけたカバンを前に持ち直し、肩の辺りまで伸びた髪を軽く揺らして。それから前髪を止めたヘアピンを少しだけ触ってから口を開いた。
			「あの、入部したいんですけど」
			
□ ■ □
 その日の夜。私はろくにご飯も食べず、ベッドに突っ伏していた。
			 もう、何もする気が起きない。というか、どうやって帰ってきたのかわからない。
			 先輩は、あの女の子に向かって「ようこそ」と声をかけた。そしてそれから、活動内容の話を始めて……。
			 入部届けを差し出す先輩とそれを受け取るあの子の姿が頭に浮かぶ。
			「なんで、私は駄目なんだろう……」
			 そう呟いて枕に顔を埋めるしかなかった。
□ ■ □
 それから数日。
			 私はあの部屋に出向くことが無くなった。
			 行ったって、もう部員が他に居る。それなら部外者である私が居る場所なんてない。
			 だから、ただ放課後の教室でぼんやりと時間を過ごしていた。
			 何もすることがない。ただ、ゆっくりと溶けるように時間が過ぎる。外の喧騒ばかりが聞こえて、夕日に染められた紅茶のような教室。
			 もう、教室には誰も居ない。私だけがぼんやりと教室の底に沈んでいる。それは飲み干す瞬間に甘く香る、溶け損なったもののよう。
			 教室の中はただ静か。聞こえるのは、時計の針の音と、私を呼ぶ声。
			 ――呼ぶ、声?
			 何処と無く気だるい身体を机から起こして、ドアのほうへ顔を向ける。
			 そこに立っていたのは。
			「恭介……先、輩?」
			 軽そうな色の髪の毛を苛立たしげにかきあげる先輩。
			 表情は眼鏡で見えない。
			「神名川……お前なんで来ないんだよ」
			 その声は小さく。私はあっけにとられることしかできず。
			 先輩は私から目をそらすように俯き。私は先輩を見ていられずに机に視線を戻す。
			「だって、」
			 ぎゅっと締められる様な痛みをごまかすように、口を開く。
			「新しく部員が増えたじゃないですか……」
			 あの子を部員だと認めるということは、あの小部屋に私の居るスペースはないということの自覚。それは自分のささやかな幸せに止めを刺す事で。とても、辛い。もう、あの後姿も、気だるそうな仕草も、あの温かな紅茶も見ることができない。
			 今すぐにでも泣きたい気持ちを抑えて、言葉を拾う。
			「部員ができれば、私はただの部外者じゃないですか」
			 じゃぁ、私の居場所はもう、という言葉は、突然の足音にかき消された。
			 机の上に影が差す。紅茶の底が、隠される。
			「……あのな、神名川」
			 それは苛立った様な、呆れた様な声。
			 次にどんな言葉がかけられるのか。私は顔を上げられない。
			 影で覆われた視界。それは突然、別のものに取って代わった。
			 それは小さな手帳。
			「お前な、これよく読んだことあるか?」
			 それは生徒手帳。
			「あのな?神名川」
			 先輩の声が近づく。
			 そのまま耳元で囁かれた声。それはいつもの声とは違い、拗ねたような響きを持っていて。それでもその声はとても優しくて。底に残ったものを夕日の教室に溶かしてしまった。
□ ■ □
 そして今日も、ホームルームが終わると同時に教室を飛び出して。
			 いつもの小部屋の戸を開けて。ソファの上で寝ている先輩を呼び起こす。
「先輩、この間のあの子はどうしたんですか?」
			 いつものように紅茶を入れる後姿を眺めながら、問いかける。
			 すると先輩は肩越しに振り返って「あぁ」と声を上げた。
			「あの子なら辞めたよ」
			 そして温かな紅茶が目の前に出される。
			「俺が入部届けを渡した時点で、そう長く居る気は無かったみたいだし?」
			 そして先輩は私の頭を軽くなで、
			
			「それに何より。部内恋愛は禁止だしな」
			
			 だからお前は部外者のままで居ろ。と。
			 耳元でそっと、そう囁いた。