深い緑の季節も少しずつ茶色に染まっていく季節。
それでも森は、深い緑のままだった。
そんな森を真っ直ぐに突っ切る道を、一台の小さな馬車が走っていく。
道の後ろに広がるのは、精霊が住むと言われる森。小さな街。それからシンプルな城。
森の中の小さな公国、トラングリッド。
小さな馬車は真っ直ぐに、その国を後にした。
□ ■ □
「――まさかトラングリッド公があの子をあそこまでひた隠しにしていたなんてねぇ」
そんな声が響くのは、至る所に本が積み上げられた部屋。
暖炉の前に置かれた小さな椅子に腰掛けて炎の中に薪を投げ込みながら、少年――クラエスは軽くため息をついた。
背中にかかるのは結ぶことなく流された真っ白な髪。動きやすい服装にマントを羽織った彼は、紫の瞳を細めながら、ぱちんと弾ける薪に視線を送った。
「――それは仕方がないでしょう」
そういえば今日到着予定でしたっけ。と、本に阻まれながらも何とかあいているスペースに紅茶が入ったマグを置きつつ答えたのは、黒い服をきっちりと着込んだ少年。その言葉に目を向けることなく、クラエスは「まぁ、なぁ」とつぶやいた。
手を伸ばせば届くカップを手に取り、一口だけ口をつける。それから小さく「なぁ、バロック」と声を上げた。
バロックと呼ばれた黒い少年は、紅茶の湯気で曇った片眼鏡を気にすることなく「お茶請けでしたらそこにおいてあります」とだけ言って、マグに口をつけた。
テーブルに置いてあったビスケットはまだほんのりと暖かく。クラエスは暖炉の薪を見つめながら、黙々とそれを食べる。
二枚、三枚と枚数を増やしていると、「それにしても」と、いつの間にかテーブル横に添えられた椅子に腰掛けたバロックが言葉をついた。
「ん?」
「先月のアレ――、貴方さらに変わり者として名を馳せたんじゃないですか?」
静かながらも少しだけ呆れたような響きの声に、彼は「かもね」と小さく笑い、「でもね」と言葉を繋げた。
ぱちんとはじける薪から、両手で包むように持ったマグへ視線を落とし、
「約束、だったから」
別にそんなの、構わないさ。と呟いた。
「約束、ですか」
鸚鵡返しなバロックの言葉に、彼はくすりと笑った。
「他愛もない約束だけどね」
「そうですか」
このまま問い続ければ、そのまま答え続けるだろう話を、バロックは簡単な一言で打ち切る。
と、同時に、来客を告げる鐘が鳴り響いた。
□ ■ □
「――お待たせいたしました」
そのような言葉とともに開けられた扉を待っていたのは、二人の少女だった。
適度に背筋を伸ばして前に立つのは、外出着を身に纏った少女。その格好はどこかシンプルで、彼女が侍女の立場であることを表していた。きっちりと纏められた髪は赤銅色。同色の瞳は少しだけ不安を混ぜた色で彼を見上げていた。
後ろに立つのは、森の溶け込みそうなグリーンのドレスに癖の無い金髪を流した少女。帽子を目深に被っていて表情は見えないが、口元は何処と無く固く結ばれていた。
他に供をつけるわけでもなく。たった二人。
それが今日の客人。
今日からの、同居人。
「いらっしゃいませ」
バロックは堅苦しい挨拶は無用だといわんばかりにドアを引き、中へ二人を促す。
挨拶をする気満々だった様子の侍女は、その音なき言葉に開きかけた口をつぐんで不安げに歩を進めた。グリーンのドレスをまとった少女は、相変わらず黙ったままドアをくぐった。
ドアを閉めると同時に、この家の主が姿を現した。
ようこそ、というありきたりな科白で出迎えた少年は、あの時と同じように上から下まで真っ白で、顔の大部分を前髪と仮面で覆っていた。
思わず絶句する侍女の少女の反応を見て、彼は少しだけ口の端を吊り上げた。
「驚きは無理も無いか。この姿は人に聞いていたとしても皆驚く。けれどもこれが僕なんだ。気にしないでくれると嬉しい」
気にするなといわれても無理というか、不安があっという間に頭を埋め尽くした侍女は思わず己の主を振り返った。
彼女の主――人形嬢は相変わらず口の端を固めに結んだまま。
不安げな少女。
無言で立つ人形嬢。
それらをどこか偉そうな笑みで迎える白い少年。
その状況を無表情で傍観する黒い少年。
「あちらに、お茶を用意しておりますのでどうぞ奥へ」
ホールに流れた一種異様な空気を一蹴したのはバロックの一言だった。
ま、それもそうだなとあっさりマントを翻して背を向けた白い主は、肩越しに紫の瞳を向けて「あぁ。今更名乗るまでも無いと思うけど――僕の名前はクラエス=クラック。改めて、ヨロシク」と軽く笑った。
□ ■ □
「フィーナ?」
「はいっ!?」
侍女の少女に声をかけたバロックは、予想以上の返事に思わず次の言葉を無くしかけた。
確かに、前に会ったのはもう何年も前の話だが、彼女は何故こんなにも緊張しているのか。もしかして自分が威圧感でも与えているのかと疑問がよぎっても、それは本人に聞かないと分らない。とりあえず会話を進めようと心の中でため息をついて話を続ける。
「こうして会うのは――かなり久しぶりですね」
「あ……あぁ。そうですね。お元気そうで、なによりです」
背筋を伸ばしてかしこまる少女は、やっぱり緊張している。
このままではこの先非常に疲れることになりそうだ。と、バロックはもう一度心の中でため息をつく。しかし、初日である今日は仕方ないかもしれない。そう思うことにして、仕事場についての説明をしたいと簡単に告げ、背を向ける。
慌てたようにぱたぱたと続く足音を聞きながら、振り向きもせずに背中に声をかける。
「ところで――何をそんなに緊張しているのですか?」
「ぇ……きゃ」
反応の声に続いて、何かに躓くような音。
即座に振り向いて片手でフィーナを受け止めると、彼女は申し訳なさそうな視線を彼に送った。そんな視線にも、「怪我はありませんか?」と声をかけただけで再び背中を向けた。
「そうそう」
再び足を進めながら、バロックは再び口を開く。
「貴女達はこれからここで生活するのですから、肩の力を抜いてください。――それから、言葉遣いは気にしないでください。そのほうが私もありがたい」
彼女の表情は見えないが、「はい」という返事に少なくとも先ほどまでの緊張は無かった。
□ ■ □
当てられた部屋でぼんやりと外を眺めていた人形嬢は、ノックの音で室内へ視線を戻した。
「フィーナ?」
そのまま振り向いた彼女は、思わず口を閉じた。
開いたままのドアにから入ることもせずに立っていたのは、上から下まで白い少年。
顔の大半は相変わらず前髪と仮面で覆われていて、人形嬢は少しだけ怪訝な顔をして口を固く結んだ。
「……む。僕の事は嫌いか?」
少し呆れたような残念のような声にも、少女は「物好きだと思うわ」とだけ呟いて少しだけ視線をずらした。
その返答にクラエスは「ほぅ」と相槌を打って続きを促す。
人形嬢は再び窓の外へ視線を向けて
「――人形なんか傍に置いたって、貴方の『変わり者』としての名が上がるだけよ。違う?」
そう、言葉を風に乗せた。
それに対するクラエスの回答は、「何を今更」という一言だった。
窓から外が望める位置。人形嬢まで後数歩、というところまで歩を進め、風に髪を軽く流す。
人形嬢は、そんな彼に視線を向けることもしない。
そんな彼女に、少しだけ寂しそうな視線を向けて、それから目を伏せて。
「僕は、そんなの当の昔に覚悟してる」
仮面と前髪で隠れることがない口元は、微かに笑みを浮かべていた。
しばしの沈黙。
窓から軽く吹き込む風。
さら、と衣擦れの音を立てて、人形嬢はそっと立ち上がった。
クラエスより頭ひとつ分低い背丈。
それをじっと見下ろす彼の目を、深いグリーンの瞳で見つめ返す少女のそれは、硝子球のように綺麗で、無機質だった。
無感情とも取れそうな瞳でじっと彼を見上げる少女は「私は自動人形よ」と、静かに言った。
「私は、カイ=カルティシア=トラングリッドにそっくりなコピー。その意味、解る?」
そう続いた言葉に、彼は一瞬だけ紫の瞳を丸くした。
けど。反応はそれだけで。
彼はなんだか偉そうな微笑を浮かべて「そう」とだけ言った。
□ ■ □
彼が部屋を出て行って、レイは小さくため息をついた。
なんだか落ち着かない。
新しい環境に慣れていないからか。
いや。この部屋はとても居心地がいい。
それは、つい先刻までそんな事なかったのが何よりの証明。
じゃぁ、何で。
理由は簡単。
彼だ。
彼と会うのは初めてではない。
まだ、二人の背丈がそう変わらない頃に一度だけ。
自分が人形であることを忘れた、唯一の日。
忘れられる、わけがない。
自分が人形であることを忘れてしまいそうになる。
あの紫の瞳を見ると、胸が苦しくて。
あの声を聞くと、理由もなく泣きそうで。
そわそわして仕方がなくて、その場にじっとしていられない。
胸の淀みをため息にしても、尽きることはなくて。
「どう、しよう」
人形嬢は、人形らしからぬ行動――とてもとても困った顔をして。不安げに明るい日差し差し込む庭に視線をおろした。
□ ■ □
部屋に戻ったクラエスは、少しだけ乱暴に椅子へ腰掛けた。
薄暗い室内。
小さくなった炎を眺めながら、外した仮面を本の山の上へ放り投げる。
来客の鐘からずっと放って置かれた紅茶のマグを手に取り、口をつける。
それは、とても冷たく、苦くなっていた。
その苦味に少しだけ顔をしかめ、すぐにため息をひとつつく。
それから首元にかかっていたチェーンを軽く引っ張り、しゃらん、と涼しげな音を立てるアクセサリを取り出した。
雫を象ったそれは、ネックレスやペンダントというよりも、髪飾り。
水色、薔薇色、緑に紫。淡い淡い色のそれらで構成された装飾品。
それを大事そうに眺めた彼は、小さくため息をつく。
「――君はもう、僕のことを覚えてないのかな」
それは、二人の背丈に差がなかった頃の話。
あの日以来、彼女の事を忘れたことはなかった。
こんなに好きなのになぁ、と。
彼は一人ごちて、もう一度マグへ口をつける。
――あぁ、やっぱり渋い。
それが、気分故に苦いのか、本当にそんな味なのか。
彼に判断する術は、なかった。