五月の話。

 春というには遅く、夏というには早い。
 本来ならめぐり合うことの無いその季節。
 そんな時期に空を泳ぐという奇行をやってのける魚をはじめて見たのは、いつだっただろうか。高く青く。それでもどこか半端な空で、堂々と泳ぐ姿は、半端を矛盾で綺麗に打ち消す。
 それは、微妙に合わない貝を無理矢理嵌めているようで。それ故にぴったり合うような違和感。私は、日の当たりにくい座敷から時々見えるそんな空が、とても、好きだった。

 □ ■ □

 それは、夜。
 みなが寝静まったその時。
 一人眠れなかった私の前に、ぼんやりとした人影を見た。
 徐々にはっきりしてくる輪郭。それは、一人の青年。
 所々に金の混じる黒い髪。闇と同化しそうなほど、黒い瞳。
 纏う服もただ黒く。その青年は、眠る私たちの前に立っていた。

 怪しい。怪しすぎる。
 周りに居る誰も起きない。私だけが、彼を見ていた。
 そしてその青年は、私の方を見て――笑った。
「君だね。ずっと俺を見てたの」
「知りませんよ。誰ですか」
 彼はその言葉にきょとんとした顔で、瞬きを一つして。
 それから口元に手を当てて、何故か楽しそうに笑った。
「そっか。これじゃ怪しいだけだもんな……悪ぃ悪ぃ」
 自覚はあるのに、態度を改めようとしない。
 何、この人。
 見た事もないし、仲間の誰でもない。始めて見る顔、私の周りには居ない格好。
 ただただ、怪しくてしょうがない。
 誰か起こそうと、隣で眠る仲間の裾へと手を伸ばす。
 しかし、どんなに袖を引っ張っても、彼女に起きる気配は微塵も見られない。
 どうして、何で?
 半分自棄になって隣の仲間を起こす私を見た彼はにこりと笑い、なぜか私に手を差し伸べた。
 揺する手を止めて、その手に視線を向ける。
「……なんですか?」
 思ったままを口にした私に、青年は一瞬だけ視線を彷徨わせた。
 しかしそれも一瞬のこと。すぐに視線を戻し、
「ぁー。えっと。……驚かせたお詫び。今夜一晩だけでもいいからさ。付き合ってよ」
 なんて。軽い言葉と笑顔を私に向ける。
 何でだろう。
 怪しくて仕方が無いはずなのに。今すぐにでも立ち去ってほしいのに。
 心のどこかで夢だからと思っていたのか。
 その目に惹かれたからか。
 外へと出たかったのか。
 結局その誘いを否定できずに。重い袖をあげて、その手を取った。

 □ ■ □

 出歩く事が少ないせいか。それとも別の理由か。体が少しだけ重い。
 でも。
 初めて出た外は、そんなの気にしてられない位、広かった。
 広くて、高くて。そして、夜なのに想像以上に明るい。
 知らないものがいっぱいで、色んな物を教えてもらいながら歩く。

 そうしてどのくらい歩いたのか。
「外に出るのは初めて?」
「ぇ?」
 周りばかりを見ていたため、突然かけられた声への反応が遅れた。
「初めてなの? 外」
 楽しそうにもう一度。見上げた私の視線に合わせる様にして首を軽く傾げる。
 それにどう言葉を返して良いのか分からず、一つ頷く。
「私に、あそこから離れる事は許されてませんでしたから……」
 

 私の役目はあの場所に座って、姫様の世話をする事。
 家の穢れを受け持つ姫様。いつも笑って幸せそうであるものの、時折見せる哀しそうな顔を思い出す。
 自分には、家の穢れを背負うなどという大きな役目は頂かなかったものの、少なからずその影響は受けてきた。姫様を楽にするため。彼女がそれを望んだため。自分が穢れを背負うこともしばしばあった。長い間、それを流しもせずに抱えることは、本当に、辛い。

 あぁ、そんな時だったか。
 私があれを見たのは。

 薄暗くて息苦しい箱から抜け出したあの日。
 少しだけ開けた戸の隙間から、夜空に踊る魚を見た。
 軽く、ふわりと、自由気ままに。
 水無き空に浮かぶ魚。
 月の光の為なのか、黒い鱗が黄金に光るその姿。
 それはとても心地よさそうで。穢れなど軽く流してしまえそうで。
 私は、あっという間に心を奪われた。
 

「ねぇ、これからどうしようか」
 良い所で、要らない茶々が入る。
 どこまで軽いのかこの青年。と、見上げると。目が、合った。
 くるりとした黒い瞳は、まっすぐに私を見ている。
 金色の混じる黒い髪がさらりと揺れる。

 黒い瞳を、じっと見つめる。

 彼はどうして私を連れ出したのだろう。
 そんな考えがふとよぎる。
 彼を知っているようで。知らない自分がもどかしい。
 彼は私を知っているらしい。そこが分からない。
 何処か引っかかるのだが、何かが分からない。
 後一つ。何か分かれば。

「貴方は……何なの?」
 質問に対する答えではなく。
 思わず、そんな言葉が口をついて出た。
 それは、私にも思いも拠らない言葉で、言い終わると同時に慌てて口をふさぐ。
 よく考えなくても。私はどうしてここまでついてきたのだろう。
 誘いだって、そのまま断わればよかったのに。
 でも。
 今日が無かったら。
 私は外を知らなかった。
 空がこんなに広い事を知らなかった。
 星を、月を、雲を、街を。
 そして、彼を、知らなかった。

 その問いに返ってきたのは、淡い笑顔。
「俺は、君と同じような存在だよ。――本来なら会うことなんて有り得ないもの。って言ったら少し重い感じするけどね」
 本来なら会う事の無い、同じ存在。
 そっと、自分の胸を押さえる。そして、考える。
 自分の役目、その年月。たった一度だけ見た、奇怪で自由な魚。
 自分の存在を棚に上げて、在り得ないと思った存在。

 部屋と箱を繰り返して、何時しか箱に戻されることは無くなって、どの位経つのだろうか。
 いや、これが夢ならば。逆に箱から出される事なく、記憶の底を夢見てるのかも知れない。
 高く青い、緑の薫る空も。
 しとしと降る長雨も。
 抜けるような空色に、轟く雷鳴。
 淡い空に、はかない夕焼け。
 鼠色に舞う、白い雪。

 そして、また巡ってくる、鮮やかな陽気。散り舞う桃色。それすらも。

 全て、夢、なのか。

 この夜も、広い空も。
 そして――。
 この、目の前で笑いかける青年も。

「どうしたの?」
 そう、尋ねる声に私は何と答えたのだろうか。何も答えなかったのかもしれない。
 少しの間。
 突然、頬にひやりとした涼しい風の感触と、服が重みを持つ感覚が降って来た。

「――え!?」
「はいはい、暴れないでね。危ないから」
 気楽にかけられた言葉。混乱する頭に、全身を吹き通る冷たい風。
「一体何を…………っ!?」
 声を上げて、状況を把握した。思わず握った青年の服を、さらにぎゅっと握り締める。
 髪を梳いて吹き過ぎるそれに頭を冷やされて、何とか叫ぶことは押さえた。押さえたけど。

 この状況、どうなんだ。
 私を支えるのは、青年の腕。それから私が握る彼の服。腰まで届く髪を梳くのは、初夏の風。足元の支えなど無く。遥か遥か下のほうに、点る明かりが見えるのみ。

 つまり。

 私は青年に抱きかかえられたまま、空中に浮いていた。

 確信する。
 この青年は、あの魚だ。
 私の存在もありえないが、こんな風に空を舞うなんて存在もまた、ありえない。
 私の存在が確かなら。
 彼の存在もまた、確か。

 夢の中なら、尚更――。

「これ、夢だと思ってる?」
 私を抱えたまま、青年は楽しそうに声を上げる。
「そんな。これが夢じゃなかったらどうするんですか!」
 吹き過ぐ風に負けないように、声を上げる。
 青年は「だろうなぁ」と楽しそうに笑い、私へと視線を落とした。
 いつでもまっすぐに向けられる、瞳。
 にこりと笑う、陽気なそれは、いつに無く真っ直ぐに私を見ていた。
「夢だったら」
 青年がつぶやいた。
 一度目を閉じて、開いて。それから少しだけ笑って、言葉を続ける。
「夢だったら、さ。君の夢に現れた俺は、君に思いを寄せている。なんてどうかな?」
 言葉の中身は何処までも軽いのに。
 言葉はとても真剣で。その目はあまりに真っ直ぐで。その声は切なくて。
「……冗談を」
 私はそう返すのが精一杯だった。

 それはとうの昔に廃れた夢話。
 夢路に現れる異性は、己への想いを抱いている。なんて。
 そんなの。

「冗談?」
「そう、そんなの昔に廃れた俗説です」
「そか。それは廃れてるんだ……じゃぁ、今は?」
「今は――」

 此処まで口を開いて、言葉が止まった。
 今では。
 己がその異性を想うから、夢路へと呼ぶ。

 これが夢ならば。

「ね、今は。何?」
 その声で我に返る。風の感触を思い出す。
 風が髪を舞い上げる。彼の髪も、風でさらりと踊る。
 何処か楽しそうな声。それは、この風を感じての事なのか。
 答えが出ない。
 出したら。ずっと認めたくなかった、この感情を認めてしまうことになる。

「ね、此処は夢なんでしょ?」
 じゃぁ、答えても大丈夫だよ。と、彼は笑う。

 大丈夫。
 そう、此処は夢だから。
 その言葉で、その考えで。急に気が軽くなった。
 抱きかかえられたまま。軽く笑って答える。
「今は。想う者を、夢路へ呼ぶんです」

 瞬間。
 一際強い風が吹き抜けた。
 支えられる腕に一瞬だけこめられた力。
 その瞬間に閉じた瞳。
 ありがとう、という微かな声。

 次に目を開けたとき。私は部屋の窓辺に立っていた。
 空を見上げれば、緋と藍の混じる空に舞う、黒い龍。
 それもまた、刹那の出来事。
 瞬きをした後の空には、何も居なかった。
 

 あぁ、これは本当に夢だったのだろうか。
 私があたるには余りにも時期はずれな風に吹かれて。
 今更ながらに、夢であることを少しだけ否定したい自分が居た。

 □ ■ □

 時期が過ぎたのか。はたまたあの時空へ昇ったのか。
 あの日以来、空を泳ぐ黒い魚を見ることは無くなった。

 そして、私は今日も枠に仕切られた四角い空を見る。

「また、空を見ているね。君はこの季節になるといつもそうだ」
 私は日の光等というものは苦手だが、そんなに面白いものかね、と。一つ下の段に座る彼は、袖でで風を送りながら呟く。
「私だって、日の光は苦手だけど……」
 適当に言葉を切って、窓の外を見る。

 想い人が訪れ、想い人を呼ぶ。そんな夢路で。
 またいつか、会えることを。

一月に一つ、その月にあったお話を。
5月ですね。月の行事に欠かせない二人のお話。
この二人。此処で終わりなのかしら。それとも夢で会うのでしょうか。それは、何時かのお話。
それではまた来月。