『一緒に天体観測しませんか?』
明日は日曜日。7月7日。
そんな張り紙になんだか惹かれて、夕方遅くの屋上へ向かった僕を待っていたのは、一人の女の子だった。
黒くてさらりとした長い髪。
遠めに見てもわかる白い肌。
細身の身体にはちょっと大きめに見える、セーラー服。
真っ黒なのにどこか仄白い印象の彼女と設置された天体望遠鏡。
青空の下がとても似合いそうに無い、モノクロなのに彩やかな彼女は。
夕暮れの下も、ひどく似合わなかった。
「ぁ、いらっしゃい」
そう言って振り返った彼女は、ようこそ、とやさしく笑った。
こっちへどうぞ、と示されて隣へと移動する。
「はじめまして。私、天文部の部長をしている上総です。貴方は?」
「弥宵 司です」
よろしくお願いします、と笑うと、月夜さんもにこりと笑う。
他に誰も居ない屋上。
夕方は夕闇に移り変わる。
そのまま二人で何も言わず
ただ、日が落ちて星が出るのを待った。
何か話してもよかったのだけど。
落ちる日をじっと見つめる上総さんに、なぜかかける言葉が無かった。
日が、落ちた。
「さ、始めましょうか」
上総さんは小さくつぶやいて、天体望遠鏡の前へと立った。
星、月、銀河。
ゆっくりと時間をかけて、たくさんの星を見る。
天体のことをよく知らない僕に、上総さんはいろんなことを教えてくれた。
星の名前。星座、神話。
その話はとてもとても面白くて、興味深い。
時計を見ることも忘れて、僕は星を見ることに夢中になっていた。
□ ■ □
そうやってどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
空ばかり見ていた僕は気づかなかったが、もう住宅地の明かりもほとんど見えなくなっていて、周囲はほとんどが闇になっていた。月明かりが少ない今夜。天体観測にぴったりな夜空からの光もまた、ほとんど無い。
ふと我に返って顔を上げると、隣では上総さんがとても楽しそうに空を見上げていた。
その姿があまりにも幸せそうで。
「星空、好きなんですか?」
思わず、そう聞いてしまった。
彼女は何処かうっとりした目のまま僕のほうを振り向き、「はい」と言葉短く笑い、我に返ったように軽く目を開いて「私ばかり楽しんでるみたいですみません……」と、やっぱり笑った。
黒い髪に、黒いセーラー。白い肌。
本当に、彼女には。
夜空がとても似合っていた。
「そういえば弥宵君」
上総さんは、風に乗せるように、夜空を見ていた僕の名前を呼んだ。
はい何ですか? と、彼女のほうを振り向くけば。
彼女は僕のほうを見て、穏やかに笑っていた。
彼女には笑顔しかないのか。なんて錯覚を覚えるほど、彼女の表情には笑顔しかない。
今日一日。しかも夕方以降の数時間しか見てないけど。
この人は幸せなんだろうなぁ、と思った。
そして彼女は、そんな笑顔のまま、「今日は、七夕ですね」と小さくつぶやいた。
僕も小さく「そうですね」と笑う。
彼女はその答えにうなづくようにして瞳を閉じた。
「今夜は晴れましたけど。弥宵君はどう思います?」
「七夕は、晴れてた方がいいんじゃないですか?」
それは、彼女にとって予想通りの答えだったらしい。「そうですか」とやっぱり笑う。
「私、七夕の日は晴れて欲しくないんです」
「? なんでですか?」
それは簡単な疑問。天の川の両端で年に一度の機会を待つ二人。晴れれば二人は会える。雨が降れば天の川の水かさは増して、船が出せない。一年も待って会えないのは。悲しくないのか。待ち望んだその日だからこそ、晴れて欲しくないのか?
僕はそんなに疑問そうな顔をしていたのだろうか。彼女は小さく笑い、「だって」と言葉を続けた。
「晴れてたら二人きりでゆっくり過ごす事ができないじゃないですか? 雨だったらカササギが橋を架けてくれる。曇りが一番いいですね。船も出るし、誰からも見えない。一年間。ずっと待っていたのなら、一晩くらい二人きりで居たい。――そう、思いませんか?」
とても淡い笑顔。
星明りの下。
彼女は今にも、闇に溶けてしまいそうな気がして。
僕は、彼女から目をそらせなかった。
好きな人と、二人きりで。
その言葉が、なんだかとても重い。
淡く笑う彼女。
静かに落ちる、星明り。
ぶれて重なる、ひとりの少女。
風に揺れる黒い髪。
赤みがかった茶色の瞳。
あぁ、名前はなんと言ったっけ。
星明りは静かに落ちて。
彼女は淡く微笑んで。
少女は今にも消えそうで。
かすかに聞こえた短い言葉。
それはどっちのものなのか。
今にも溶けてしまいそうな彼女。
しかし、そんなことがあるはずも無く。
上総さんはにこりと笑って「今日はもう遅いですし、お開きにしましょうか」と言った。
□ ■ □
望遠鏡の片づけを断られた僕は、何処に行くというわけでもなくただ、夜を歩いていた。
星の明かりは弱く、道を照らすには至らない。
屋上ならともかく、こんな道では天の川も見えない。
足を止めて、空を見上げる。
星の合間、その闇。
上総さんの話を、何気なく思い出して、反芻する。
そこで。ふと。
遥か昔に見た女の子を思い出した。
真っ黒な髪、赤みがかった茶色の瞳。
真っ赤な着物がよく映える、たった一人で遊んでいた女の子。
僕はあの子に、どんな感情を抱いたんだっけ。
空を眺めて、考える。
その想いは、僕の深いところに落ちてしまっていて、ただその気持ちがある、と言うことしか感じられない。
僕は、あの子に。
少女の名前を、唇だけでつぶやく。
いつか、彼女に会えるだろうか。
そんなことを考えて、ただ、夜空を眺め続けた。
□ ■ □
天体望遠鏡を片付けていた彼女は、ふと、その手を止めた。
張り紙を出したのは、気まぐれだった。
なんとなく、一人で見るには惜しい気がした。それだけのこと。
そのはずだったのに。
思わぬ客人が現れた。
黒い髪に黒い瞳。
一見まじめそうな印象を持つ。
真っ直ぐな少年。弥宵 馨。
七夕の話。
あの時少年が無意識に呟いた一言。
それは、彼女の知る少女の名前。
「無意識ではあるようですが……まだ、気にかけてるみたいですね」
本人がそれを自覚してるかどうかが問題ですけど、と。誰にとも無く呟いて、軽く笑う。
こうして、この学校には存在しないはずの「天文学部・七夕観測会」は静かに終了した。