まだ夜も明けないうちに。
ぷしゅぅ、という空気の抜けるような音を立てて止まったのは、一台の乗り物。
荷物を置くスペースにいくらかの足場が設けられたボード。垂直に立つハンドル。造りもみかけも、とてもシンプル。
そこから飛び降りたのは、元気のよさそうな少女。
年の頃は17,8。肩にかかっている鞄に刻まれているのは、郵便配達員の印。黒い帽子に、皮地のゴーグル。紺の上着に同色のズボン、膝下のブーツ。
一見、少年のような印象を受けそうな彼女は、ゴーグルを外さずにとある家の玄関へと立つ。それから肩に掛けた鞄を探り、ハガキの小さな束を取り出す。
「ぇっと……この家宛ての年賀状は……これかな」
束を数枚めくって何枚かのハガキを引き抜き、それをポストの中へ落とす。
かたん、と底にあたる軽い音が小さく響く。
それを確認した少女は、そのままその家へ背を向けて。足場に立って軽く地面を蹴り。
掻き消えるように、姿を消した。
□ ■ □
空気の抜けるような音を立てて、その乗り物は静かに止まった。
「ふぅ……今日はもう終わりかなー。仕事始めお疲れ様自分」
ハンドルに寄りかかり、少女はため息を一つつく。
しかし、その顔に疲れは見られない。寧ろ、口元は満足そうに笑っている。
少女はそのまま乗り物から飛び降り、帽子を取って髪を風に流しながら、ドアをくぐる。
風に軽くなびくのは、茶色の短いショート。さくりと切られた後ろ髪とは対照的に、きれいに揃えられた前髪。ゴーグルを上に上げると、黒く気の強そうな瞳。それは意志の強さと同時に気さくさも垣間見せる。
石畳ともリノリウムともつかない床に、ブーツの音をこつりと軽く響かせて。少女は一つの扉の前で少しだけ立ち止まった。
間をほとんど空けることなく軽い音で開いた扉をくぐると、リビングのような部屋。4つがそれぞれ向かい合うようにおかれたソファと、そのソファそれぞれに添えつけられた小さなガラス・テーブル。窓は無く、照明だけが部屋を明るく照らす。ソファと反対側の壁には、飲み物が自由に飲めるコーナーも設けられているところを見ると、リビングと言うよりも休憩室のような印象を受ける。そして。その部屋には先客がいた。
「ぁ。アキちゃん。おつかれさまー」
ソファにうずまったままにこりと笑って彼女に手を振るのは、まだ12,3歳程の女の子。
白いシャツに青いプリーツスカート。ショートブーツと赤い帽子。肩より少し伸びた黒い髪は、照明を受けてさらりとゆれる。いつもは深めにかぶっている帽子も、今日は心なしかかぶり方が軽い。くるくるとよく動く、好奇心旺盛そうな黒い瞳が、彼女をまっすぐ見つめていた。
「おつかれ。キリハはいつも元気だね」
アキ、と呼ばれた少女は軽い返事を返して、棚にかけてあった自分のカップにコーヒーを注ぐ。角砂糖は二つ――ぃゃ、一つにもたまには挑戦してみよう。それからキリハの座るソファへ近づく。
「アキちゃんは、もう仕事おしまい?」
私は休憩中なんだけど、とキリハは湯気の立つココアに口をつけた。
「私はもう終わりかな」
仕事があれば手伝うよ、とカップを揺らして砂糖を広げながら、向かいのソファへ腰掛ける。
少女の膝の上と横に添えられた小さなテーブルに広がるのは、数通の封書。きっと、これらを届けるのが今日のキリハの役割なのだろう。
「あれ?その封筒は?」
ココアをすする少女の膝上に置かれた、水色の封筒。
「うん?」
キリハは空いた手でその封筒をひらりとめくり。
「これは、招待状。かな?」
と、にこりと笑う。
しかし、アキは「うそばっかり」といたずらっぽく笑顔を返す。
「それ、キリハ特製の便箋じゃない。君が関わらない限り、その便箋に手紙を書くことは不可能。ちがうの?」
軽く指摘すると、キリハは「あら、ばれちゃった」とその封筒をくるりと回した。
「そう。これね。鬼灯のテマリちゃんの所に居た、お兄さんからの」
ちょっとだけ帽子を下げて、キリハは小さく笑った。
鬼灯。その名前は聞き覚えがあるな、とアキはコーヒーに軽く口をつける。
月に魅入られて、満月から抜け出せなくなった少女。テマリというのはキリハが勝手に付けた名前のようだが、「鞠月の鬼灯」というのが彼女の通称。赤い着物に赤い瞳、肩でそろえた真っ白な髪。そして、彼女にはいつの頃からか同伴者が居る、と。そういうウワサが流れていた。
「もしかして、鬼灯の同伴者?」
ぅ、やっぱり少し苦い。と、コーヒーカップから口を離すと、キリハは小さく頷いた。
というか、彼女と接点を持つ人なんて居たんだ。と少しだけ感心する。
キリハは封筒に視線を向けて、「あのお兄さんは、ただ巻き込まれただけだから」と呟くように言葉をつむいだ。それから「……あぁ、テマリちゃんもそうだけどね。あの子の場合、元凶があの子をすごく気に入っててさ、ちっとも離してくれないんだよ?」と、少し寂しそうに笑う。
でもね。と。
帽子の影でキリハが小さく笑うのが見えた。
それは、何度かしか見かけたことの無い。何か考えのある顔。
「誰か代わりが見つかれば、同伴者だけでも解放されるんじゃないかな、って」
目深にかぶった帽子の中で。年齢にそぐわない、自嘲めいた笑みを浮かべる。
この少女は何を考えているのか。
「キリハ……それはどうなのよ」
少しだけ語尾を強めてアキは軽い反論をする。その一人を助けるために、他の人が犠牲になればいい、彼女が行っている言葉はそういう意味にもとれて仕方が無い。
でも、キリハはそんな非難など気付かないかのように、にこりと笑った。
それはいつもの笑顔。
人懐こくて、周囲に明るさを振りまくそれは、今この時だけ、何処か違う意味を持っていた。
それは拒絶。
これ以上、この話に立ち入らないで、というもの。
キリハに何の意図があるのかは、全く分からないが。ここは彼女の笑顔に従うしかない。それ以上追求したって、この子は何も教えてくれないだろう。それはここ、不思議郵便課、とキリハが呼ぶこの部署では唯一同期の自分が良く知っている。
「それにしてもさぁ」
と、ココアを飲み干したキリハが満足そうに息をつきながら愚痴のような言葉を吐き出す。
「テマリちゃんをさ。そんなに見えるところに置いときたいなら、夜に閉じ込めたりしないで直々に迎えに行けば良いのにね」
どうしてしないんだろうね。と、何処かさびしそうな目を一瞬だけ揺らして。けれどもそれをすぐに笑顔へ摩り替えて。さ、私これを配達してこようかなー。と、元気に立ち上がった。
「それ、何処に配達するの?」
アキとは色違いの紅い鞄を軽く肩に掛けて支度をするキリハに、なんとなく声をかけた。
少女は「うん?」と帽子を押さえてくるりと振り返る。
さらりとゆれる髪と、少しだけいたずらっぽい瞳。まっすぐにアキへと向けたそれを笑顔にすぐさま変えて。
「時間の指定は梅雨の後、夏の前。そんなハザマの季節。宛て先はお兄さんをずっと待ってるお姉さんに、だよ」
にっこり答えて、じゃぁいってくるねー、と背を向けて手を振って。軽い音と共に少女の姿はドアの向こうへ消えた。
コーヒーに角砂糖をもう一つ追加して、ぼんやりとそれを眺める。
底に沈んだ立方体は軽く揺らせばくるりと回り、少しずつ溶けていく。砂糖が溶けて見えなくなっても、その影響はいつまでも。珈琲というその小さな世界がなくなるまで、影響を及ぼし続ける。不思議だなぁ。と、砂糖を混ぜ溶かし、ソファに再び座る。
ここには、様々な理由をもった人が自分の世界から逃げ出してやってきて、何かしら職業に就く。年齢性別時代全てがバラバラだが、基本的には自分の望む頃の姿をや職業になれるとか何とか。以前の記憶はあったり無かったりとなんともアバウトで。キリハは過去の記憶を持っているが自分は無い。そんな感じ。だから。ある意味では転生に近いのかなぁ、等と少しだけ甘くなったコーヒーを飲みながら目を閉じる。
目を閉じて、小さく思う。
私は、この世界にどうして来たんだろう。何のために?
もし。この世界へやってきたことに意味があるなら。私はこの砂糖みたいに何か出来るのかな?
しかし、それはなんだか愚問っぽいな、一人で笑いながらコーヒーに口をつける。そして、あの小さな少女のことを考える。
キリハのあの笑顔と、何処か寂しそうな顔。どちらが本当の彼女なのかは知らないけど。あの子は笑ってるほうがずっといいよね、なんて。キリハがいつものあの笑顔で「ゆうびんでーす」等と元気に走り回ってる様子を思い浮かべると、まぁ、あの笑顔を信じるのが一番なんじゃないかな。と思えてくる。
もし、あの子が何か企んでいたとしても、唯一の同僚がやってあげられる事は、手助けくらいのもんでしょう?
コーヒーを飲み干して、カップを洗って棚に戻して。一つだけ伸びをする。
今日の仕事はもう終わった。
後は本でも読んでごろごろするかなーぁーそういえばこの間キリハに借りたゲームがあったなぁ、等とぼんやり思いながら。
彼女もまた、軽い音を響かせてドアの向こうへと姿を消した。
□ ■ □
梅雨が明けたばかり、これからが夏本番の青空の下。
「あの、其処のお姉さん」
学校帰りの少女の背後に、何処か元気の良い声がかかる。
振り向いた女学生の視線の先には、小柄な少女が立っていた。
郵便のマークが入った赤い鞄を肩にかけ、白い上着に青いプリーツスカート、ブーツに鞄と同色の帽子をかぶった12,3歳ほどの女の子。
「お姉さんに、郵便です」
そういって、その少女――キリハは淡い水色の封筒を差し出した。