蓬莱の珠の枝、赤き物質エリクシル、ヒヒイロカネ。
			 この世の中に名前はあれど、姿のないものは数多く。
今回のお話は、その中のひとつを巡るお話でございます。
□ ■ □
 それは暗い夜の部屋。人は眠りにつく時刻。
			 携帯電話から聞こえるそれは、囁く声にとても近い。
「それじゃぁサラ、頼んだよ」
			「えぇ、任せておいてください」
 交わす言葉は、ごくわずか。
			 そして少女は規則正しい電子音を響かせるそれをぱちりと閉じた。
□ ■ □
2月28日
「葵さん、こんなところに居たんですか?」
			 レジの奥で読書をしていた眼鏡の男は、振って沸いたような声を浴びて顔を上げた。その拍子に薄茶色の髪が目にかかる。しかし、彼はその髪を払うことなく。ただ、髪同様に色素の薄い目を細めた。
			 視線の先に居たのは、一人の少女。
			 年は高校生程度。ブラウスにスカート、エプロンにハタキを持ったその姿は、片付けの途中だったのだろうか。さらりとゆれる髪は後ろでひとつに束ねられ、右側に見える青い花の飾りだけが、少女の髪が長いことを示していた。
			「あぁ、すみません――吉良さん」
			 葵は、ハタキを肩に軽く乗せて困ったような顔をする少女、吉良に謝りながらも、どこか柔らかい笑顔を向けた。
			 吉良はその笑顔に一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐにもとの顔を取り戻してため息をついた。それから、ほぼ同じ高さにある薄茶色の瞳をしっかり見据えて口を尖らせる。
			「まったく。片づけをするって呼ぶのは構わないんですけど、いつの間にか見つけた本を読みふけるのやめてくださいよ?」
			 非難のような、子供に言い聞かせるかのような。どこかあきらめたような響きも持つその言葉は、このような事態が起こることをすでに予測していたようだった。現に、吉良はその現場に何度も遭遇してるらしく、いつものことと割り切っている様子もみえる。
 しかし、今日は様子が違っているようだった。
			 いつもだったらそこで本を閉じる彼が、じっと彼女を見つめている。
			 レジの所に置かれた椅子に座ったまま。本のページを開いたまま。笑顔はいつの間にか真剣な表情に変わり、吉良を、いや、その先をじっと見ている。
			「どうかしたんですか?」
			 一瞬だけ戸惑った吉良が後ろを振り返る。後ろには何も無い。いつものように置かれる骨董品と片付けのために移動させた商品、それからそれらの物置と化しているいくつかのテーブルがある程度。骨董屋でもあり、小さな喫茶店でもあるこの店特有の組み合わせ。それらは特に変わったところ無く、吉良の目には何も無いように映ったらしい。首をひとつ傾げて首を戻すと、葵は無言で席を立ち、その視線と入れ替わるかのようにドアの前へ立った。
			 そこに落ちていたのは、一枚の紙。
			 それを無造作に拾い上げて、ぺらりと文面を読む。その姿はドアのガラスにかけられたカーテンの向こうから差し込む光で、輪郭が強調された影となる。
			「ぁ、それ。さっき本の間から落ちたやつ――」
			 ですよ。という科白の最後は、葵の足音でかき消された。
			 少し古い板張りの店内に、硬い靴音を響かせて吉良の前に立った彼は、その紙切れを20cm程下にある少女の目の前に下ろした。
			「これが本の間から、ですか」
			 ぺらりと差し出されたその紙切れ。
			 そこには手書きのメッセージ。
 「貴方様の一日。
			  2月30日と貴方を結ぶ赤い糸。
			  頂戴しに参ります
			  
			           キサラ 」
眼鏡の奥。薄茶色の瞳が楽しそうに笑った事なんて、そのメッセージに釘付けの吉良には知る由も無かった。
 
			「葵さん。今年は確かに閏年ですけど、どのカレンダー見ても明後日は3月1日で、2月30日は流石に無いと思うんです……って、何でそんなに楽しそうなんですか。聞いてます?」
			 片づけが一段楽した後、吉良は紅茶のカップをテーブルに置いて店長の方を呆れたように眺めた。吉良が席に着くまでの当の本人はというと、先ほどのメモをテーブルの上に置いたまま、おかれた紅茶とお茶請けに手を伸ばしていた。
			「もちろん、聞いてますよ」
			 と軽く答えて彼はカップに口をつけた。湯気が彼の眼鏡を白く曇らせる。
			「……葵さんはこれ見てなんとも思わないんですか?」
			 自分のカップを両手で包んで不平を口にする吉良に、葵は小さく笑った。
			「だって吉良さん。これ、どう見ても予告状ってやつですよね? しかも2月の30日に赤い糸。そんなのうちの商品には無いですし、そもそも目に見えるかどうか怪しい物です。赤い糸はまぁ、人によって信じる信じないがありますけど、2月30日だなんて絶対に不可能じゃないですか」
			 一体どうやって、と。曇った眼鏡はそのままに、彼はクッキーを口へと運ぶ。そして「ぉゃ、このクッキー、おいしいですね」と話をそらした。
			 しかし、吉良はそんな言葉に惑わされること無く、言葉を続ける。
			「ったく、狙われてる本人がこんなにやる気が無いんじゃ、盗る方もやり甲斐無いですよね」
			 予告状の主に同情するように、ため息をつき、吉良もカップに口をつける。
温かい紅茶は少しだけ苦く、そして、溶けるように甘かった。
□ ■ □
 時刻は夜。
			 人は皆、寝静まるころ。
 音も無くかかってきた電話を、そっと取る。
			「――サラ?」
			 無言のまま受話器を耳に当てると、耳慣れた声が響いた。相手など確認する必要は無い。この電話にかけてくるのは彼だけだ。
			「名前を確認するまでも無いでしょう?」
			 軽く告げると、それもそうだ、という軽い笑い声が聞こえてきた。
			「で、あれはもう渡したんですか?」
			 単刀直入に用件を尋ねると、受話器の向こうの人物は、渡したよ、とだけ小さく答えた。
			「本人はなんとも思っていないようだけどね」
			 くすりと笑って続けるその声はどこか楽しそう。
			「そうですか。それならば計画通りですね」
			 窓から差し込む月明かりをちらりと眺めて、ではまた、と受話器を閉じる。
「計画通り――ね」
			 薄暗い部屋の中。ベッドに腰掛けた少女が、小さく笑った。
□ ■ □
2月29日
「おはようございます」
			 店長はハタキを持った手を止めて、小さな音を立てて店に入ってきた少女の方へ振り返った。
			 年は高校生程度。ブラウスにスカート、さらりとゆれる髪は後ろでひとつに束ねられ、左側に見える青い花の飾りだけが、少女の髪が長いことを示している。
			 彼は一瞬だけ考えたようだったが、すぐにいつものような笑顔を少女に向けて挨拶をした。
			「おはようございます、春宮さん。妹さんの様子はいかがですか?」
			 春宮、と呼ばれた少女は、少しだけ悲しそうに淡く笑って「はい」と答える。
			「吉良は――まだ部屋から出てこないんです」
			 もう、どのくらいになるんでしょうね、とポツリと呟く。
			 葵はただ曖昧に笑って、何も答えない。
			 これまでにも何度か現れたこの少女。春宮 沙良。
			 いつも、「吉良は部屋から出てこない」と答える彼女は、吉良と瓜二つ。
			 しかし、吉良は昨日この店にやってきたという事実がある以上、彼女の言い分はおかしい。なのに彼は何も言わず、ただいつものように笑う。
			「春宮さん、……珈琲でもいかがですか?」
 暖かな湯気を上げて珈琲サーバからカップに注がれる液体。それを眺めていた沙良は、ふと、テーブルの上に置きっ放しになっていた紙を見つけた。
			「なんですか、これ……?」
			 手にとって眺める紙に記されているのは、昨日と一文字一句変わらない文章。
			「あぁそれ、昨日本の間から落ちてきたらしいんですよ」
			 コーヒーカップを口にしながら、いつもの調子で答える彼は、そんなの全く気にかけていない様子。沙良はその紙をしばらく眺めた後、「2月の30日に赤い糸、面白いですね」とだけ笑って呟いて、元の場所へと押し戻した。
□ ■ □
2月29日:夜
 吉良はふと、宿題を進める手を止めた。
			 後ろの扉振り返る。――誰も居ない
			 窓の外に目をやる。――誰も居ない。
			「……っかしいなぁ?」
			 と、机の上のノートに目を戻す。机の上の時計は、あと30分ほどで日付が変わることを示している。最近は早めに眠くなる事が多い吉良は、こんな時間まで起きてるのは珍しいな、とふと思う。日付が変わる瞬間、それは世界が変わる瞬間にも似ている。そして、2月は中途半端だな、と。ペンを進める。2月。それは日付が足りない月。空白の日付を持つ、未完成の月。
			「2月30日……」
			 再び手を止め、シャーペンを口元に当てて、呟く。
			 存在しない日付。存在しない暦。別にそれはどうでもいい。良いのか、といわれたら、昨日の天気ほどにどうでも良い。
			 それよりも気になるのは。
			 ――赤い糸。頂戴しに参ります。
			 あの人の、赤い糸。
			 その糸は見えなくて、その意図は分からない。
			 でも。
			「葵さんの赤い糸、かぁ……」
			 ため息。
			 何処か重苦しい気分。
			 時計の針は、40分。
			 別に、本人がアレだけ気にしていないのだから、実際は狙うほうを気遣うべきなのかもしれない。そう考えてペンを動かす。そして、しばらくしてふと、止める。11時45分。5分も集中力が持たない。そして、再び考える。そう、葵さんは何も気にしていなかった。だから、自分が気にかけるほどでもない。それがある意味正論。なのに。
			 何か、重い。
			 それは一体何故なのか。
			 気が付けばため息をつきそうで。
 何で
			 私は こんなに
			   ため息を  つきそうなの――
			 
 ――か。
			「――……ぇ?」
			 瞬時に、目の前が変化した。部屋から屋外へ。防寒もしっかりと。靴もきちんと履いて。そしてそこは、骨董屋へと向かう道の途中。小さな公園の入り口。
			 突然の変化についていけなかった吉良は、ただ呆然と立ちつくす。一体何が起こったのか。自分はこれまで、机に向かっていなかったか? そんな疑問が頭を埋め尽くす。
			 なんでどうしていつのまに。
腕の時計は、11時55分。世界が終わる、5分前。
「――困ってるようだね」
			 そんな声は、公園の奥から聞こえてきた。
			 その声に吉良が顔を向けると、街頭に照らされた時計台の長い影。その陰に隠れるかの様に人影があった。
			 影の中に紛れる、今の時代にはそぐわないシルエット。それは何処か時代錯誤。
			 そしてその人物は、紛れも無く先程の声の主。
			「サラはちゃんとやってくれたようで何よりだよ」
			 そう言って、その人物は歩を進め、吉良の目の前で立ち止まった。軽く翻ったマントが、ふわりと落ち着く。肩にかかる束ねた髪を、背中へと軽くはじく仕草。吉良より頭一つほど高い頭、見下ろす顔は、よく見えない。帽子はないが、片眼鏡が街頭の光に軽く反射している。その姿は、言われなくても怪盗と呼ぶにふさわしい。
			「君の意識を乗っ取って、僕の待つここまで連れてくる。――うん。実によくやってくれたよ」
			 街頭に照らされた髪、それから纏う服。それは闇夜と同じ黒一色。吉良はそんな男性をまっすぐに見上げ、「誰ですか?」と口にした。
			 目の前の怪盗は、ふ、と小さく口の端を吊り上げて律儀に答えた。
			「それは君の想像通り――それとも、キサラと名乗ったほうが良いかな?」
 怪盗。キサラ。
			 それは予告状に記された名前。
			 しかし。
			 その怪盗が、何故自分の前に居るのか。
 名前と存在を認識すると同時に、目の前の青年に対して警戒する吉良に、怪盗――キサラは困ったようにくすりと笑った。
			「警戒されちゃったなぁ……」
			 そう呟く声にも、残念そうな気配は無い。が、吉良もその声に警戒を緩める様子は無い。それどころか、彼を何処か悔しそうに見上げて、口を開いた。
			「ぁ、葵さんの30日と……それから、赤い糸、本当に盗むツモリなんですか?」
			 その目は真剣。
			 キサラは面白いものを見つけたような目をして、言葉を返した。
			「葵さん? 君は何を言ってるのかな」
			 軽く首を傾げて見せた後、あぁ、と口だけで科白を形作る。それから何処か挑戦的ににやりと笑い、問い返す。
			「何で、そんなのを気にするのかな? もしかして、君はその『葵さん』の赤い糸を僕に取られるのが気に入らない、とか?」
			 考え込むような仕草で口元に手を当てるキサラ。だが、その目に疑問なんて無く。ただ、何処か偉そうに、とても面白そうに。20cmほど下にある少女の目を覗き込んでいる。覗き込まれている少女は、店長の名前に動揺したものの、すぐにいつものようにまっすぐ見つめ返す。
 街頭が照らす夜の公園。沈黙の人影は二つだけ。
			 時計の針は、残り3分。
「……気に入らない、ですよ」
			 しばらくためらった後、口ごもるように呟かれた一言。それは一度出てしまえば後は楽に数珠繋ぎになって出てくる。
			「葵さんの赤い糸は、私が欲しいんです。そこらの怪盗――貴方なんかに渡したくなんか、ない」
			 声は小さく、決意ははっきりと。しかし吉良自身の視線は、言い終える頃にはすっかり足元へと向かっていた。
			 キサラはふむ、と小さく唸って、やはり笑う。
			「なるほど。キラは葵さんとやらの赤い糸が欲しいわけか」
			 その言葉に、一つ頷く。
 俯いた時に見えた腕時計の針は、残り1分。
			 面白そうに吉良を見下ろすキサラと、拗ねたように視線を落としている吉良。
			 怪盗。少女。街灯に形作られた多数の影。
			 あまりに時代錯誤で、現実味が無い。
 そんな不思議な空間を崩したのは、キサラの軽いため息だった。
			「――どうして君は、僕が男の赤い糸なんか盗んでも面白くない、って気付かないの?」
			 全く君はどれだけ鈍感なんだ、と。呆れたような一言。
			 ぇ、と小さく呟いて顔を上げた吉良はもう遅く。
腕時計の小さなアラームが、29日の終了を告げた。
 
			 その音と同時に、怪盗は少女の手を取り、引き寄せる。引かれるままによろめく少女をしっかりと受け止め、ふわりとマントで包みこむ。
			 ダンスのワンシーンを切り取ったような格好になった少女の耳元で、小さく囁く。
「僕が狙っていたのは、君の赤い糸だよ」
 状況がよく飲み込めていない吉良を包む腕に少しだけ力をこめて、離す。そして、掴んだままの手の甲に軽く口付け、吉良の瞳をまっすぐに見つめて笑う。
			「赤い糸、確かに頂いたよ」
			 
彼がそう呟くと同時に公園の時計がかしりと音を立て、3月1日の始まりを刻んだ。
「さ、キラにはそろそろ眠ってもらおうかな」
			 用件は済んだといわんばかりに呟いて手を離した怪盗は、まだ事情が飲み込めていない少女の目の前で指を一つ鳴らした。
			 途端、彼女は少しだけふらりとした後、キサラをまっすぐに見てにこりと笑った。
			「目的のものは、手に入れられましたか?」
			「あぁ、ちゃんと手に入れたよ」
			 応答は簡潔。それに、目の前の少女は軽い笑顔で「そうですか」と答える。
			「これで、吉良の赤い糸は貴方のものですね――それにしても、骨董屋の店長に想いを寄せていたあの子の赤い糸を盗むなんて、どうして考えたんですか?」
			 その質問に、彼は一瞬だけ間を空け、彼女に背を向けて答えた。
			「ま、儀式みたいなものだよ」
			 君が嘘をついてまで彼からキラを遠ざけたいと考えているのと、同じ心境さ。とだけ軽く答え、ひらりと手を振って姿を消した。
 3月が始まったばかりの公園に一人残された少女は、胸に手を当てて、
			「みんな、私ではなくてこの子ばかりを見てるのね……。まぁ、私の大事な吉良だもの。仕方ないといえば仕方ないか」
			 と、誰にとも無く呟いた。
□ ■ □
次の日。
 夕方近くの薄暗い骨董屋の奥。レジカウンタの椅子に腰掛けて呟くのは、分厚いハードカバーの本をぱらりとめくる男性。眼鏡の奥に見える色素の薄い瞳は、どこか楽しそうに文字を追う。
			 そこに響く、小さなドアの音。夕方の客は限られている、と言わんばかりに店長はカウンタの椅子に腰掛けたまま、足音が近づいてくるまで本から目を離さずにいた。
			 足音が止まった。続けてカウンタに荷物を置く音が人気のない店内に響く。
			 音の主は、高校生ほどの少女。
			 濃紺のブレザーにプリーツスカート。胸元のリボンが軽く揺れる。右側に見える青い花の髪飾りが、後ろで束ねられた彼女の髪が長いことを示していて。
			「ぉゃ、吉良さん。いらっしゃい」
			 ようやく本から顔を上げた店長は、いつものように声をかける。が。すぐさまいつもと様子が違う事に気づいた。
			「今日はいつものような元気がないですね。どうかしたんですか?」
			 本をぱたりと閉じて。カウンタから立ち上がり、困ったような顔をした吉良の前まで進み出た。
			 しばらく黙っていた吉良は、ひとつだけため息をつくと、なんとも形容しがたい瞳を彼に向けた。それは怒りでもなければ困惑でもない。本人すらもどう言ったら良いのか分からない、疑問だらけの目。
			「昨夜、何もありませんでしたか?」
			「――はい、何もありませんでしたよ?」
			 まっすぐな問いに、いつもの笑顔でやんわりと答える。
			 そして、そのまま問いへと転じて投げ返す。
			「何か、あったんですか?」
			 途端、少女はぐっと何かが喉に詰まったかのような表情を浮かべ、目をそらして「なにも、ありませんでした」と。心なしか頬を赤くして呟いた。
 昨夜のあの科白。あれはキサラに向けたものであって、この店長に向けたものではなかった。寧ろ、葵更を相手にしていたからこそ言えたもの。
			 いえるはず、ない。
 店長は「そうですか」といつものように笑って
			「吉良さん、今日は僕が紅茶を入れますからそこに座っててください」
			 と、お茶用のテーブルを指し示して、台所へと姿を消した。
 吉良がテーブルに着くと、一枚の紙切れが目に入った。
			 それは、吉良の手にした本から落ち、葵に拾われ、沙良によって置かれたままの紙。
			 ぺらりとめくり、文面を眺めてため息をつく。
			 彼が狙っていたのは、自分の糸。
			「そんなの、気付くわけないじゃない……」
			 これはこれで溜息ものだと言わんばかりの呟き。
			 自分が一番奪われたくないものは残っている。しかし、自分のが奪われたとなると、それはそれで本末転倒。誰でも持ってる赤い糸。よく考えなくても目に見えない。それなのに、自分の糸が望む人と繋がっていないという事実を突きつけられれば溜息だって出てくる。それが元からならまだしも、繋がってるかどうかすら分からないうちに奪われた。気の持ちようとは言うものの、昨夜の事実は消し去れない。
			 見えないのに、心なしか小指が寂しい。
			 そういえばかなり前に、先輩ががこの店に来ていたな、と何も無い小指に視線を落としながらふと考える。
			 あの時自分は奥でお茶を入れていたから知らないが。後になって、赤い糸が見えたんだけど何だろうとか何とか、そんな話を聞いたような覚えがある。まぁ、それが実際どうなのかは分からないが、それが今でもあるのなら、自分の赤い糸が何処に繋がっているかを見てみたいものだ。
 そんなことを色々と考えているうちに、紅茶をトレイに載せた店長が戻ってきた。
			「はい、これでも飲んで元気を出してくださいね」
			 そう言って目の前にカップが置かれる。ほのかにあがる湯気を追って顔を上げると、眼鏡の奥でにこりと笑う薄茶色の瞳と目があった。
			「――冷めないうちに、どうぞ?」
			「ぁ、はい……いただきます」
			 少しだけぎこちない手で持ち上げたカップは、暖かく。
			 紅茶の味は、これまでの悩みなど溶かすかのように微かに甘かった。
□ ■ □
 片づけをすると言い張る吉良を、宥めて帰した後。
			 キッチンに一人立つ店長は、彼女がさっきまで使っていたカップを手にとって眺めていた。細かくも華美ではない模様が刻まれたこのカップ。しばらく眺めていた彼は自嘲気味に笑う。手にしていたそれを洗い桶の底へと沈めて。
			「吉良さん、2月30日と赤い糸、確かにいただきましたよ」
			 だれも聞いていないキッチンでポツリと。
怪盗が笑った。