それは、とてもあつい帰り道のこと。
プールで濡れた髪もあっという間に乾く熱気。
逆にその湿気が不快指数を上昇させる気がするほどの陽炎。
そんな帰り道。
僕は、不思議なものを見た。
それはテレビでよく見るようなものとは違う。
違うけど。
UFOとか、妖怪とか。そんなのと同じように考えてもいいのかもしれないそれは。
どう見ても、行き倒れた女の子だった。
ま、普通の女の子って蒸気吹いたりしないけどね。
□ ■ □
女の子を起こして、とりあえず日陰になっていた壁に寄りかからせる。真っ白でまっすぐな髪に、太陽の光なんか知らないような白い肌の彼女は、目を閉じたままぐったりしているようにも見える。「大丈夫ですかー」と声をかけてみたり肩を軽く叩いてみたりするものの、無反応。
どうしようか、と途方に暮れかけた僕が視線を落とすと、ポケットに定期ケースが見えた。
そっと取り出すと、そこには定期なんてものは入って無くて。行き先の代わりに名前と住所の書かれたカードが見えていた。
氷室 緋芽。ヒムロ、ヒメ。
そんなちょっと変わった名前と振り仮名の下には、住所は電車やバスなど必要ない、歩いて5分もかからない場所がかかれていた。
しょうがない、こうなったら最後までつきあおう。
思った以上に軽い彼女を担いでやってきた場所は、「変わり者」が住んでいると噂の屋敷だった。重い鉄門、煉瓦の壁。古びた洋館、と言うにふさわしい建物。正直、胡散臭い。
住所は間違っていないはず。なんて思いながら呆然と屋敷を見上げていると、門の横に取り付けてあったインターホンからノイズが聞こえた。続けて、「どちら様ですか」という女性の声。
「ぁ、あの……、道端で倒れていた人の住所を見てきたんですけど」
開けてもらえますか、と言い終わるより先にインターホンは耳障りな音と共に途切れ、しばらくの間を開けて一人の女の子がやってきた。カジュアルといえばカジュアルな、シャツに黒い長ズボンという、どこか少年っぽい格好。彼女はずれた眼鏡を軽く押し上げて、僕の肩に担がれている少女を眺めるように視線を向けた。それから少しだけ呆れたように、ため息をついた。
「ヒメ。あれほど外は暑いからと言ったのに……。少年、ご苦労だったな。ま、茶くらいしか出せないが、涼をとるには十分だろう、どうぞ」
そう言って重そうな鉄門を開けて、屋敷へ手を伸べた。
肩に担いだ彼女――緋芽ちゃんをソファに寝かせ、勧められた席へと座る。
掃除が綺麗に行き届いているその部屋。目の前の一人掛けソファには、先ほどの服に白衣を羽織った少女が冷たい麦茶を一気飲みしていた。
「それで、少年」
コップをテーブルに置く音と、声が重なった。
「はい……」
「少年はここの秘密の一端に触れてしまったわけだが。どうする?」
「……はい?」
確かに夏空の下でドライアイスみたいな蒸気を噴いて倒れている女の子なんていないけど。
それで、どうする? と聞かれても。
そんな「にやり」という言葉がよく似合いそうな視線を向けられても。
非常に、困る。
僕は単なる通りすがりで、日常過ぎる日常の中で、非日常に出逢ってしまっただけで。
そんな僕のどうしようもない言い訳なんか寄る辺なく、少女は言葉を続ける。
「少年。あの子は外に出られない、とても特殊な体質でな。私と一緒に暮らしているのはそのためだ。――で。君がとれる選択肢は少ない。このまま帰ってもかまわないが、その後の保障はないと思って欲しい」
「そ、その後の保障……?」
「そう、その後の保障。なぁに、条件は簡単だ。彼女の――ヒメの友達になってやってくれ」
そして、彼女は今度こそ「にやり」と笑った。
□ ■ □
目が覚めると、そこはいつもの部屋だった。
私は外に出かけたと思ったんだけどな、なんて考えながら体を起こして気付く。
あぁ、私はまた、倒れたんだ。家の中でもふらふらしてるのに、あんなに暑い外に出たからかしら。
貧血体質というのはいただけない。
もっと好き嫌いしないでご飯を食べるべきだな、と考えながら居間に抜けると、そこには見知らぬ少年が居た。
「えっと。どなた、ですか?」
首を傾げつつ、その少年に声をかけると、彼はソファから立ち上がって「お邪魔してます」と頭を下げた。
「彼は、草薙 隼人。――君の、友人だ」
そういって奥のドアから麦茶を持って現れたのはミチルさん。
自分専用のソファに腰掛け、三人分の麦茶を注ぐと、視線だけで私にソファを指し示した。
そして、私が席に座るのを待ってから、ミチルさんは私に話を切り出した。
「ヒメ。外に出たいか?」
私の目をまっすぐに見て。ミチルさんはたずねた。
外。
私は身体が弱くて外に出てはいけないと、ずっと言われていた場所。
それは、両親が居なくなる前から。
ミチルさんのところで暮らすようになってからも。
確かに、外に出ると倒れてしまうことは、自分でもわかっていて。
体質かなとあきらめる反面、頑張れば克服できるかななんて思っていて。
でもだめだったことは今日はっきりと思い知らされて。
そんな私に、外だって。
「出たいです!」
気付いたらテーブルに手を着くように身を乗り出して即答していた。
何度も何度もチャレンジして、幾度も幾度も失敗してきた外出。
やっと出られたのに、満喫する前に気を失ってしまった場所。
それでも。
そうやって喜ぶ私をみたミチルさんは、「そうか」と小さなため息をつくように頷いた。
「解った。明日一日だけだが――出かけよう」
□ ■
その日は朝から曇っていた。
けれども、ミチルさんは「いつもより涼しいなら、そっちの方が好都合だ」と呟いて、黙々と準備をしていた。
ミチルさんは、いつも通りの格好で。
私は真っ白なスカートにカーディガンで。
隼人さんは、ジーンズにシャツと言う軽い格好で。
行き先は少しだけ離れた丘の上の公園。
ミチルさんが朝から作ったお弁当を持っての、ちょっとしたピクニック。
もう8月も終わりに近いのに、その日はやけに涼しかった。
昨日までの暑さが嘘のように、曇った空は涼を運ぶ。
丘の上。
其処から見える街を見下ろして。
隼人さんが自分たちの通う学校を指差し、ミチルさんが私たちの家を見つけ出し、それならばここがあそこで……と皆で笑って。持ってきたお弁当を食べた。
おにぎりもから揚げも。お弁当にはよくあるメニューだと隼人さんは言っていて。ミチルさんは「それでも別に構わないだろう」と麦茶を注ぎ分けて。でも、その昼ごはんはとてもおいしくて、皆であっという間に食べてしまった。
その後は暫く皆で空を見た。曇っていて、どこか行き止まりのような空だったけど、やっぱり空は広かった。何処までも続いていて、終わりが見えない空。私が始めて時間をかけて見た空は、やっぱり、広かった。
そうやってるうちに眠ってしまっていた隼人さんをミチルさんと二人で笑って。
目を覚ました隼人さんもやっぱり笑って。
とてもとても。
たのしくて、あっという間な時間。
気がついたら夕方で。
雲間から遅い太陽が顔を出して、
帰る頃には、赤い空が頭上を覆っていた。
「では、帰るか」
そういってミチルさんがシートを片付け、私たち三人は、丘を背にした。
そしてその帰り道。
私の意識が
暗転した。
□ ■ □
あれ? ミチルさんの声がする。
私、なんで倒れちゃったのかな。
日差しが強かったからかな。
貧血かな。
――なんか、体が冷たい。
――!
あぁ、そっか。
なんかわかった気がする。
皆が、私に外へ出てはいけないという理由。
私は、太陽の下では。
生きていけない。
人間じゃ、なかったんだね。
□ ■ □
「――ヒメ!?」
突然倒れた緋芽ちゃんに、ミチルさんが駆け寄る。
彼女を抱きかかえて名前を呼ぶ。
僕も駆け寄って、緋芽ちゃんの顔を覗き込む。
緋芽ちゃんからの返答は、無い。
ミチルさんも、黙っている。
どうしよう。
此処はまだ山の中腹。助けを呼ぶこともままならない。
「ミチル、さん」
ふと、小さな声が聞こえた。
声の主は、緋芽ちゃん。
「ヒメ、喋るな。今すぐ家に――」
「いいんです」
焦りを含んだミチルさんの声に返ったのは、穏やかな声。
「私、家までもたないと思います。――ごめんなさい。私が外に出たいなんて、無理を言ってたから――」
それから目を閉じて、口の端だけで彼女は微笑んで。
「今日は、とても楽しかったです。ミチルさんと、隼人さんとで。こうやって外に出ることができて」
彼女は穏やかに笑ったまま「私、人間じゃなかったんだって、やっと――思い出せました」と小さく口にした。
「! ……ヒメ、お前はただの……」
「ぃぇ、良いんです。ミチルさん」
そして彼女は笑ったまま、自分の本当の姿を、呟いた。
「私は――雪女だったんですね」
太陽が出て、急上昇した気温は、夏の入り口を示していた。
倒れた緋芽ちゃん。
俯くように膝を突くミチルさん。
動けない僕。
今頃鳴きだした蝉の声が、響く。
「ヒメ……」
「ミチルさん、私、もうだめそうです。だってほら……」
と、彼女は少しだけ腕を動かした。
其処に響いたのは、ありえない音。
ぴちゃり、という水滴の音。
ね、と笑う緋芽ちゃんに、ミチルさんは無言で頷いた。
そっと彼女を地面に寝かせて。
じわじわと地面をぬらしていく彼女を、二人で黙って見つめる。
どうすることもできないまま、溶けていく彼女を見つめる。
そして、広がって、しみこんでいく水の中で。
「――今日はありがとう、ございました」
彼女の声が、かすかに聞こえた気がした。
□ ■ □
「ヒメはな。ずっと太陽にあこがれていたんだ」
ふと、ミチルさんが口を開いた。
太陽の、特に夏の太陽の下では、生きられないのに。と。
だから、あれだけ外に出るなといったのに、と。
ミチルさんはポツリと言った。
ミチルさんが緋芽ちゃんと出会ったのは、まだ小さい頃だったと言う。
己の正体を知らないままに、彼女は外にあこがれていて。
その度に緋芽ちゃんとミチルさん、二人の両親から止められていた。
数ヶ月前に再開した彼女は、やっぱり外にあこがれていて。
そしてあの日。
自分が道端で緋芽ちゃんを拾った昨日。
其処まで焦がれているなら、と。
曇りの予報が出ていた今日、出かける決心をしたと。
「私はずっと、悩んでいたのだよ」
と、ミチルさんは地面にできた水溜りに視線を落として呟いた。
「彼女の命と、願いと――どちらを優先させるべきか」
一時の沈黙。
蝉の声だけが、むなしく響く。
「あの子の笑顔を見ているとな」
と、蝉の声に声が重なった。
「―願いをかなえてやりたくて仕方なかったのだよ」
そういって、彼女は立ち上がった。
□ ■ □
何もいわず、屋敷の門をくぐってドアを開ける。
ミチルさんが自分のソファに腰掛けて一息ついて。
俯いたまま、「つき合わせてしまったな」とつぶやいた。
僕はただ、首を横に振ることしかできない。
――と。
突然背後のドアが開いた。
他には誰もいないはず、とあわてて顔を上げる僕たちの前に現れたのは。
真っ白な髪に、真っ白な肌の。
少しだけ幼い顔立ちをした、女の子。
「…………ヒ、メ?」
「――はい!」
僕の記憶の中の女の子より3歳は年下に見える女の子は、とてもうれしそうに頷いた。
えぇと。いったい何が起こったのかな?
僕が話についていけないでいると、ソファに座ったままのミチルさんが、突然くすくすと笑い出した。
「そうか。そういうことか――ヒメ、お前は暑さに弱いだけで、それで消滅することはないのだな」
一人でつぶやくように。天井を仰ぐように、笑って。
それから少女に――緋芽ちゃんに向き直って。
「ヒメ、お帰り」
と、優しい笑顔で声をかけた。