九月の話。

 そろそろ長月。宴の準備だの司召除目だのなんだので、何かと忙しいこの月。
 陰陽生、小野正成は悩んでいた。
 正直、この季節は憂鬱だ。やれ菊の宴だ月見の宴だと周りは浮かれ気味だが、弱視の自分にとっては景色を愛でる事が少々難しい。見えないわけではないが、微妙な色違い、細かな美しさ、などというものが分かりにくい。
 だから、宴は出来るだけ断って、今日もこうして自宅で一人ため息をつく。
 悩みの種とは、その宴にある。
 この視力のためか、人に在らざる者の気配には幼い頃から人一倍敏感だった。しかも無駄に懐かれる。なので、正信は彼らを使役するようになった。使役、といっても活力を与える代わりに自分を手伝ってもらう、「式神」と呼ばれるにとても近い関係。近いといってもその程度。ギブ・アンド・テイク。だというのに、ミヤビナカタガタはそれを宴の余興あたりにしようというのだ。しかも、そのお誘いは断っても断っても断っても断っても、まるで話を聞いていないかのように毎日文にしたためられてくる。
 だから。今日も仕事が終わるとほぼ同時に、双子の兄・正信を御所に置いて先に帰宅の途についた。
 そして今日もこうして、簀子で一人、酒を傾ける。
 庭に植えられた菊は、今年も綺麗に咲いているらしい。今夜は香りが一段と強いな、なんてぼんやりと思うと、風に乗ってどこかの宴で演奏されているのであろう笛の音が漂ってきた。
 双子の兄である正信と一緒なら多少は美味しく飲めるそれも、一人ではどこか味気ない。笛の音や、月光、菊の香りなどを浮かべてもそれは変わらない。そして、軽いため息も一緒に浮かべてしまうと、味気なさは倍増する。もう、このまま寝入ってしまうか、なんて、扇で風を送りながら考えてしまう。実際、普段はさして酔わない量で眠気が襲ってきた。
 この季節、このまま寝たらだめだろうなー。などと思いつつも、まぶたが重い。
 扇を閉じて高欄に寄りかかりつつ、菊の匂いと月光に泡沫の身を任せる。

 ――と。
 自分を呼ぶ声が、聞こえた。
 それは、ほんの幽か。
 でも、確かに呼ばれた。
 自分を呼ぶのは、乳母か女房か。ぃゃ、どれとも違う、女童の声。
「だれ?」
 小さく、答える。意識は虚ろ。夢現。
 しかし、返事は返ってきた。
「私は千香と申します。正成さま、私にもその杯分けて頂けませぬか?」
 重いまぶたを上げると、目の前には予想通り女童が座っていた。
 肩を少し過ぎたあたりで揃え、小さな鈴のついた白の紐で結った髪。白に萌黄の襲は彼女には少しばかり大きめにあつらえてあるように見える。袖から小さく覗く手は思ったよりも色白で、小さな杯が添えられている。
 重い身体を起こし、彼女の杯に瓶を傾ける。
 小さな杯に小さな手。そして、彼女の小ささを一層強調するかのような少し大きめの袿。
 リン、と小さく鈴を鳴らし、彼女は小さな口に杯をあて、傾ける。
「正成さまは、お飲みにならないのですか?」
 ほぅ、と小さく吐く息にそんな科白を乗せる。
「今日は、いつもよりも酔ってるみたいだからね」
 折角だけど、と小さく扇を振ると、少女はそうですか、と小さく笑った。
「では、菊でも愛でませんか?綺麗に咲いてますよ?」
 ほら、と彼女が袖をついと庭の方へ振る。
 その袖につられて、庭の方へと目を向ける。
 そこには。
 淡い月光とそれを浴びた白菊が、風に揺れていた。
 思わず、目を奪われる。
 月光に透けるような、白から紫へと移り変わるそれは、今はただ真っ白に。闇の中で存在を主張している。
 現実にはありえない光景だ。僅かに覚めた頭の隅でそんな事を思うも、目の前の美しさにはそんな考え消し飛んでしまう。ただ、酒の回った頭でその景色に見惚れる。隣に座る女童が、ちりん、と小さな鈴のついた頭を軽く振った事にも、その瞳が移ろう菊の紫だったことにも、その音で女童が姿を消したコトにも。何も気付かずに。ただ、その真白の菊を眺め続けた。

 □ ■ □

「――なり、正成!」
 自分を呼ぶ声で目が覚めた。いつの間にか枕になっていた高欄が頬に痛い。
 どこか重いまぶたと頭を上げて、声の主を探す。主は後ろに座ってくすくすと酒を傾けているのに、見当違いのほうを見渡す。
「何時に無く酔っているようだね。正成」
 と、自分によく似た声がかけられる。
 起き上がって、声のする方を振り返ると、庭の方を向いて酒を口に運ぶ人物が見えた。細かい輪郭はぼやけて見えないが、それは間違いなく双子の兄、正信。
「正信……宴は?」
 まだ重い頭で問いかける。正信と同じように目を向けた庭では菊が咲き誇っているらしく、強い香りが風に乗って香る。
「そんなのもう、引き上げてきたよ。ほら、月もそろそろ傾く時間だ」
 そう言って、盃を月に翳す。その輪郭はぼやけてよく見えない。
 そして、そこで気付く。
「正信」
「ん?」
 いつもと同じ声。きっと、いつもと同じ笑顔で振り向いているに違いない。
「千香は?」
 自分の意識が落ちるその時まで隣に居た少女。
「……千香?」
 それは誰かの文の使いかな?と月光を浮かべた酒を口に運ぶ。
「ぃゃ、初めて見る女童だった。こう、少々大きめに誂えた白菊の襲で……」
 記憶に残る少女の姿を細かく伝える正成と、それをうんうんと頷きながら酒を注ぐ正信。その様子はどこかとても楽しそうだ。「それで?」と、その女童の詳細を促す。
「髪には小さな鈴のついた白い紐が……」
 と、ここまで事細かに説明したところで、正信はこらえ切れないようにくすりと笑った。
「正成、君は何時に無く面白い事を言うね」
 注いだ酒を簀子に置いて、正信が呟く。
「面白い?」
 何処が?と聞き返そうとした瞬間、気付いた。
 目の前の正信は、輪郭がぼやけて見えない。庭に咲いている菊だって、香りはするが、ただ闇の中に白が浮かぶのみ。
 なのに。

 肩を少し過ぎたあたりで揃え、小さな鈴のついた白の紐で結った髪。
 彼女には少しばかり大きめにあつらえてあるように見える、白菊の襲。
 袖から小さく覗く色白の手と、そっと添えられた小さな盃。
 そして。
 思わず見惚れた、風に揺れる月光と白菊。。
 ただ真っ白に。闇の中で存在を主張し、月光に透けるような。
 白から紫へと移り変わるそれ。

「……ホントに君は昔からいろんなモノに愛されているようだね」
 そう、小さな女童にまで酒席を共にしたいと思わせるほどに。と、正信はとても嬉しそうに扇を広げた。

 いつの間にか、月は山の端にかかり。菊は一層強く香り。
 対のように作られた二人は、月が山の向こうへ落ちるまで小さな酒宴を続けた。
 自分には香りや幽かな色月光などを愛でる方が性に合ってるのかもしれないが、今宵の菊月は美しかった。と正成が思ったその時、ちりん、と小さな鈴の音が聞こえた気がした。

一月に一つ、その月にあったお話を。
九月です。重陽の節句です、菊の節句です。
この双子、結構昔に作ったのですがこのままでは出番がピンチ、ということで。(ぇ
この時代双子なんていい目で見られてませんが、まぁ、双子だからこそこんな職業についているという設定で。いつか、書こうかな……。
それではまた来月。