月からの使者のひとり――胡蝶は困っていた。
自分の遂行すべき任務が、頭の中でぐるぐるしている。
えぇと、自分は何をしに来たんだっけ?
そんな疑問をがんばって打ち消して。そしてがんばって混乱していた。
そう。自分は迎えに来たのだ。
誰を? 遥か昔、月から追放されたと言う姫を。
何故? もう、罪は許された。だから。
罪とは? そんなの、誰も覚えていない。
何故? 彼女が追放されたのは、封印された過去だから。
封印? そう。決して表立ってはいけない。史上最大の醜聞。
へぇ。 だから、私も詳細は知らない。
君は? 私は、使者。
何の? 遥か昔、月から追放されたと言う姫を迎えるための。
「そうなんだ」
その一言で、我に返った。
自分は何に受け答えしてるんだ。と、慌てて口を噤むも、もう遅い。
目の前には、声の主――袿を被った人物が座っていた。
袿の仕立ては上等、床にそっと添えられた指は、細く白く。流れる髪は艶やかな緑成す黒髪。その髪に縁取られた瞳は黒々としていて。赤い唇、ほんのり赤い頬。育ちのよさを否応なしに認識させるその人物は、どこか呆然とした表情をしていた。
ぃゃ。呆然、という言葉は正しくない。
その目は軽く見開かれていて。まるで目の前のものに感心して見入ってるよう。
この場合。目の前のもの。とは。
間違いなく月の使者。彼女だ。
袿を被った人物は、とてもとても嬉しそうに彼女を見上げている。
「罪は、許されたんだ」
そして、よかったね、とにっこり笑う。
なんて可愛らしい笑顔。あっという間に周りが華やぐような。これが夜を輝かす姫、と呼ばれる所以なのかもしれないと、本気で信じ込ませる事のできそうなそれ。
そう。
目の前にいるのは、月から追放された姫。
の、はず。
「もしかして、困ってる?」
胡蝶の気なんて知らないで、姫はにっこり笑って小首をかしげる。
あぁ、そのしぐさも可愛い――そうじゃなくて。
「そりゃぁ、困りますよ」
口に出していえない文句を力いっぱい込めつつ、胡蝶は言葉を返す。
それなのに、姫はとても楽しそうに笑う。
「何で困ってるのかしら」
ねぇ、と可愛らしい笑顔の中に隙の無い瞳を光らせる。
「なんでって……」
彼女は答える事ができない。
そう。分かってしまった月の秘め事。それは史上最大の醜聞。
「ふふ。どうして私が月から追放されたか。話してあげましょうか」
それは明日の宴を心待ちにするような。とても楽しそうな声だった。
□ ■ □
それは遥か昔。月がとある王家に統率されていた頃。
王家が統率といってもその下には議会が設置され、法律の整備は議会で協議される。しかし、政治の頂点に立つのは王家の姫巫女。そんな政治体制をとっていた。
そして、ある年。王と后の間に子供ができた。
これまで世継ぎが居なかった二人に子供が生まれた。このニュースが出回った時ほど、国が沸き立った事は無かった。
国民は皆、姫巫女の誕生を喜び、即位を心待ちにしていた。
しかし、それは姫巫女の即位直前になって実現できないことが発覚した。
姫巫女の資格が、無かった。
その事に誰も気づかなかったのだ。
そう、それは姫巫女が生まれてからこれまで、極秘にされ続けた事。
議会も国民も「早く姫巫女を」と望む余りに。そして、両親も姫巫女が欲しかったが為に。それ故にできた、国一番の秘密。そして最大のスキャンダル。
国民も議会も、大騒ぎとなった。
姫巫女の即位。
それができない。
何より、自分たちを含めた月の住人を15年にわたってだまし続けた。
これは、大罪である。
議会はあっという間に判決を出し、両親は遠く離れた地上へ、記憶も地位も奪われて流された。そして姫も同様。
両親と離別させるのはあまりに不憫との、議会のわずかな優しさ。
両親が姫を見つけるその日まで、竹という閉じた空間で時を過ごせと。
そして、長い長い年月の後。両親はとうとう姫を発見した。
親子の絆は変わることなく、竹の中から見つけた赤子を大事に大事に育て上げ。姫は時の帝や五人の貴公子からの求婚を受ける程に美しく育った。
しかし、姫はその要求に応じるわけにはいかず。彼らに無理難題を課してまで、その要求を頑として拒み続けた。
□ ■ □
「そして、君たちが来たんだよ」
で、君だけをこの部屋に通した。と、変わらない笑顔で続ける。
同時に、「他には誰も、ここには来れない」と言葉にせずに声に乗せる。
胡蝶は相変わらず混乱していた。
そんな。
こんなことあるはず無い。
だって、目の前に居るのは「姫」のはず。
「……そんなに信じられないような顔しなくても」
姫は少しだけ困った顔をして。
「でも、これが事実なんだから。受け入れて欲しいな?」
少しだけ低い声で。姫はそう、呟いた。
深呼吸を、ひとつ。
無理やり冷静な考えを手繰り寄せる。
そして、目の前の姫の目をまっすぐに。
「ありえない」
胡蝶は一言だけ。言い切るようにそう言った。
「私は月から追放された姫を探しに来たの」
それだけを言い残して、踵を返し、御簾を押――せない。
「だめ。君はここから出られない」
後ろから聞こえてきた声は、柔らかい強制。
押しても引いても、御簾はびくともしない。
薄い布一枚で創造された密室の中。
姫が衣擦れの音と共に立ち上がる気配。
「そうだよね。これはありえない話だって、私もずっと思ってたよ?」
その声に彼女が振り返ると、そこには柔らかな笑みを湛えた姫が立っていた。
袿がはらりと落ち、床に広がる。
袿に隠れていた十二単の色が、鮮やかに纏わりつく。
そして、笑顔のまま。
どこか、寂しそうに。
「両親は記憶と地位を奪われても、女の子が欲しかったんだ」
何をそこまで思い込んでたんだろうね、と笑う。
「あの両親はもう、私をどう見ているのかわからない」
貴公子だけではなく、帝にまで「娘」の評判を轟かせてどうしようというのか。
姿はいくらでもごまかせるとしても。万が一、この声が聞かれたら。結婚なんて事になったなら。絶対にばれてはいけないこの秘密が再び表に出た場合、己の身がどうなるのかなんて全く考えていない。
「罪が許されたなんて、そんな事無い。両親はあの頃とぜんぜん変わらない」
きっと、誰もがその罪を忘れてしまったから。だから迎えが着たんだ。
胡蝶は、その崖っぷちの笑みから目をそらせない。
姫は、そのまま言葉を続ける。
「でも。君たちが来ると分かった時、どこか嬉しい自分が居た」
あの両親から、解放してもらえる。
「そして、君をここへ呼んだ」
ここから、解放してもらうために。
「さぁ。連れてって」
月でも何処でもいい。ここではない、どこかへ。
「そして、解放して」
『私』から『僕』を。
胡蝶はただ、目の前の人物を呆然と見ていた。
返す言葉は、頭の中でぐるぐるしている。
そんな彼女に「姫」は近づき、少しだけ低い彼女の頬にそっと手を添えて、出てくるであろう文句をすべて飲み込ませる。
困ったような怒ったような微妙な表情の彼女を覗き込む瞳に、悲しい色はもう、ない。
にこ、と小さく笑って、手をとり。耳元で小さく囁く。
「まぁ、僕としては。また非難の的になるのはごめんだから、静かな場所へ行きたいな?」
そして。彼女に否定権は、ない。
□ ■ □
使者の一人と姫は、月へと戻ってはこなかった。
他の使者からの話によると、彼女たちが奥の部屋へたどり着いたその時には、一枚の袿がそこに落ちているだけだったという。