五月。鮮やかな緑の季節。と言ったのは誰だったか。古の大賢者?違う。きっと、誰かがふと、漏らした一言。柔らかだった四月から鮮やかは五月へ移るのはあっという間。これから世界の色彩は更に鮮やかになり、そして、白と黒へと戻ってゆく。そんな、発展途上の季節。
			 緑の鮮やかな公園を歩くのは、どちらも冒険者のような格好をした二人組。だらだらと足を進める背の高い男性と、彼とは対照的に、元気よく隣を進む小柄な少女。
			「ほらほら見てトーヤ!木陰のベンチが空いてるよ!」
			「少しは落ち着け。お前いつか転ぶぞ」
			 と、男性――トーヤが言うが早いか足元をふらつかせる少女。
			 それを何事もないかのように受け止め、呆れたようにため息をつく。彼女が転ぶのはいつものこと、と諦めきった結果だ。
			「ったくお前は……今日で何回目だ?」
			「あはは……またやっちゃった。」
			 ごめんねー、と笑って体勢を立て直す彼女を軽く一瞥して、トーヤはまた小さく息をついた。
			「ぁー……そうだな。昼時だし少し休むか」
			 と、呟くといつものように元気な返事が返ってきた。
 まだら模様の木陰。少しだけ強くなった日差しと、それを細切れにするように伸びる枝と青々とした葉。見上げる空は、初夏と言っても良いほどの青。
			 公園には、思ったよりも人は居ない。
			 二人が適当なベンチに腰掛けると、彼女が何処からともなく白いものを差し出した。
			「はい、これがトーヤの分。で。こっちが私の分」
			 そういって差し出されたものを、グローブを脱いで受け取り、眺める。
			 手のひらにすっぽり収まるほどの、白い物体。形は丸というよりも楕円に近い。一見するとやわらかそうだが、手には見た目以上の重量感がある。表面にはたかれた白い粉が、手の上に落ちている。これは小麦粉だろうか?
			「怪訝な顔してるね?」
			 む、と軽く睨むように視線を向けると、そうやってると更に人相悪くなっちゃうよ?と余計なことを口にしつつ、その白い物体をはむ、とほおばる彼女。口の周りに白い粉を残しながら「食べないの?」と更に目で尋ねてくる。手に残された物体の断面には、黒とも紫ともいえない不思議な色をしたものが詰まっている。
			「……」
			 隣の少女の視線を浴びつつ、怪訝なまなざしのまま一口。
			 噛みきれないのでは、と一瞬思いそうなほどに、白い物体は柔らかく。しかし、意外にもあっさり噛み切られる。そのままもぐもぐと無言のまま咀嚼すると、甘い味が口に広がる。初めての食感と味に戸惑いながら、飲み込む。
			「……甘っ」
			「おいしいでしょー♪さっき露天で売ってたんだ」
			 と、お茶を飲む彼の隣で嬉しそうに口を動かす彼女の手には、先ほどと同じ――いや、同じ形、質感をした深緑色の物体。
			「相変わらず甘いの好きだな」
			 そんな会話を交わしながら、ほのぼのとお茶を飲む。その光景は、ある意味和やか。
 ――と。
			 彼女の手から、深緑の物体が落ちた。
			「?」
			 トーヤの振り向いた先に居たのは、自分でも何が起こったかわからないような顔をしたまま、今にも倒れそうな彼女。
			「……あは。……せなか、ちょっと。痛い……か、な?」
			 さっきからは想像できないような弱弱しい笑み。
			 その背中に見えるものは。
			「…………お前、なんだよ。それ」
			 べっとりと広がった、赤い染み。
			 それは背中の上の方。肩甲骨の辺りから染み出しているように見える。
			 ぃゃ、異変は赤い液体だけではない。背中から何か、盛り上がっているように見える。 トーヤがその事実にあっけに取られてる間に、服はどんどん大きく膨らみ、小さく布の裂ける音が聞こえ始めた。と、同時に彼女の苦しそうな表情もどんどんひどくなってゆく。
			 もう、口を聞くことすらできないといわんばかりに自分の身体をきつく抱きしめ、唇をかみながら必死に痛みを耐えている。その間にも、服の限界は近づき。背中を流れる血はどんどん服を染めていく。それは不思議で、理解不能で。とても滑稽で場違いな風景。
			 そうだ。彼女はいつもニコニコと笑っていて。自分をあちこちに引っ張ってばかりで。美味しいものを何処からともなく見つけては、自分の分までしっかり買ってくる。いつだって、一体何処から沸いてくるのかと本気で聞きたくなるほど笑顔と元気が絶えなくて。
			 自分の名前を呼ぶ、元気な声が頭に響く。耳障りだ。でも、それは自分にとって無くなったら困る声。
			「……おい、ふざけるなよ」
			 目の前で一層きつく縮こまる彼女に向かって呟く。爪は服に食い込み、厚手で丈夫なはずの服も意味を成していない。そんな彼女は、自分の記憶とはあまりにかけ離れていて。それは、どうしても許せない事態で。
			「な、何でお前がそんな苦しそうにしてるんだよ! いつもの元気はどうした!?」
			 肩を掴んで叫ぶ。
			 それでも、血が止まることは無く。背中の服は今にもはちきれそうな音を立てている。彼女は水を求める魚のように口を動かし、空気を求める。閉じることなく開かれた瞳は、何処とも知れないセカイを見ており、ぼろぼろと流れる涙で頬を濡らしていた。
			「おい! 返事しろよ…………カヤ!」
 それはトーヤがその単語を口にした瞬間。どちらが早かったかなんて、判断するのもばかばかしいほど同時に、服の背中が盛大な音を立てて破れ、赤い血でべっとりと汚れた翼が広がった。
			 赤い雫を青空に散りばめながら広がる、真っ白な翼。
			 その光景は、見とれるほどに滑稽で、おかしなまでに美しく。
			 トーヤはただ、気を失って倒れこんだカヤを抱きとめながら、その翼と飛沫に見とれていた。
			 どのくらいそれを見ていたのか。
			 われに返ったトーヤがカヤに視線を向けると、彼女は彼の腕の中で、安心しきったような顔をして寝息を立てていた。それはいつもとなんら変わらない、彼女。さっきの苦しそうな様子など微塵も無い、幸せそうな夢を見ていますと公言しているような寝顔。
			 まだ所々に残る赤い液体のついた翼も、背中を覆うように落ち着いている。
			 彼はそんな彼女を見て、ため息をついた。何処か安心したようなそれは、一体どんな感情なのか。彼自身にも自覚のないまま軽く微笑んで、すよすよと寝息をたてるカヤの頭を軽くなで、
			「……あの甘い物体、後でまた買いに行かなきゃな」
			 そう、呟いた。
□ ■ □
 数日後。
			 森を抜ける街道を歩くのは、どちらも冒険者のような格好をした二人組。だらだらと足を進める背の高い男性と、彼とは対照的に、元気よく隣を進む小柄な少女。特筆すべきは、小柄な少女の背中。そこにはマントに隠れていても、よく見ればすぐに分かるような大きさの翼。
			 この地域で翼を持つものは今となっては珍しい。翼を背中に持つものは「翼持ち」と呼ばれ、時には神官と同等、またはそれ以上の扱いを受けることがあるという。地域によっては凶兆だと言われるが、それはごく稀な話。空を飛べない人間にとって、自由に舞うことのできる翼は、ある意味尊敬の対象となっている。
			「それにしてもお前、翼持ちだったなんて聞いてないぞ?」
			 と、トーヤが半ば呆れたように口を開く。
			「うん。私も知らなかったよ。そういう血を引いてるって言う話は聞いたことあったけど、私には関係ないって思ってた」
			 と、手に持った前回食べ損なった深緑の物体を口に運びながら答えるカヤ。相変わらずご機嫌な彼女が「トーヤも食べる?」と勧めた食べ物を断りながら、適当な相槌を打つ。
			 今日も空は発展途上の青をしていて。草木の緑は新たな循環を祝福するかのように青々としていて。とても天気がよく、隣の少女はご機嫌で。
			 トーヤはぼんやりと空と森の緑を眺めながら、足を進める。
			 ――と。
			「ねぇ、トーヤ」
			「ん?」
			 名前を呼ばれて軽く視線を向ける。そこには何処と無く幸せそうな顔をしたカヤが居る。今度は白い物体を口に運びつつ嬉しそうな横顔で口を開く。
			「トーヤ、あの時初めて私の名前呼んでくれたね」
			「……!!?」
			 何も口に入っていないのに何かをのどに詰まらせて、思わず足を止めたトーヤを見て、更に嬉しそうに笑うカヤ。
			「ね、名前呼んで?」
			「……断る」
			「ぇー……だめ?」
			「ほら、そうやってよそ見してると……」
			 言うが早いか、足元をふらつかせるカヤ。そして、それを予測していたかのように後ろから支える彼。
			「……お前はもっと足元を見て歩け」
			「…はぁい」
 そんなやり取りと、何処か楽しそうな少女の笑い声。
			 森は一方的に響くその声を、いつものように受け入れて、夏に向けて鮮やかさを増していく。