六月の話。

□ 僕。「藤ノ瀬 光秋」

 

ある雨の日。
「――っとについてないなぁ」
 なんてぼやきながら、僕はバスの来ないバス停で雨宿りをしていた。
 バスがくるならすぐさま飛び乗るのだが、あいにく今日は運休らしい。ストライキか。はたまた道がぬかるんでいて運転手が無理と判断したか。どちらであれ、雨宿りをするしかない僕にとっては迷惑な話だ。
 しとしとと降る雨。それはやむ気配を一向に見せず、ただ周りの風景を霞ませていく

 こんな日には、ある話を思い出す。なに、何処にでもあるような他愛ない怪談話。僕が住んでるのがこんな、緑豊かな小さい町だから残っているのかもしれない、平成十数年、という現代の都会ではとっくの昔に廃れてるか都市伝説として気味悪く残ってるかのどちらかでは無いかと言えるような、そんな話。
 曰く。白い百合咲く雨降りの夜には、一人で外に出るべからず。破りし者は白き闇に連れ去らる。とか何とか。
 なんでも、この街では過去に神隠しがあったらしい。当時のことは、未だにばあちゃんの昔話に良く出てくる。小中学生の頃、僕が部活で遅くなったときには必ず「神隠しにあったらいけないから、必ず迎えを呼びなさい」と言っていた。そう、言っていた。
 僕が高校生になって早1年と数ヶ月。ばあちゃんはその事を一切口にしなくなった。そして、時折何かを思い出すかのように僕の顔をじっと見てはしみじみ僕の名前を呟くようになった。
 そんなばあちゃんの「私の若かった頃はね」で始まる思い出話には、一部の時代がごっそり抜け落ちてるような気がする。――うん。綺麗に抜け落ちてる時代がある。じいちゃんもそうだ。昔の話を聞こうとしても、どこか困った顔をするだけで、ばあちゃんと結婚した後の話しか聞いたことが無い。僕にとって、この二人、加奈ばあちゃんと信じいちゃんは一番不思議で、それでいてなんとなく触れてはいけない存在だった。

 バス停で雨を凌ぐ。しとしとと降る雨に霞む景色の向こうには、白い百合が濡れている。辺りはどんどん薄暗くなってきた。これは迎えを呼ばなきゃ帰れないと判断して携帯を取り出す。
「……あれ、圏外だ」
 こんな場所と天気のせいか。携帯も通じない。こまった、とため息をついてポケットへしまうと、向こうから小さな足音が聞こえてきた。

□ 彼女。「春宮 ちづ」

「――はぁ」
 もう、何度目なんだろう。数える気なんて無いけど、一つついてもすぐに胸の内が淀むような重い感覚。それを吐き出す。そしてまた淀む。この繰り返しが止まらない。
 雨の降りそうな曇り空と、目の前に置かれた写真。二つを流し見て、また、ため息。
 一昨日渡された写真の中に居るのは、一人の男性。黒い髪を短く纏め、背筋を伸ばしてたっている彼は、どこかの街の権力者の息子だという。そして母は、手渡されたものが一体何かをまだ理解せずにぼんやり眺めていた私に向かって、彼が私の生涯の伴侶だと嬉しそうに言っていた。
 でも、正直私は乗り気ではない。写真を見ても、それだけではどんな人なのかが分からない。母が色々言っていた気もするが、突然言い渡された将来の道標に驚くあまり、覚えていない。このため息だって、相手を想うと苦しくて、なんていう浪漫のあるものじゃないんだもの。
 別に、好きな人が居るわけではない。
 でも。
 ちょっと位、そんな感情を実感してみても良いじゃない。

 だから、お見合い前日の夕方。私は散歩に出ると弟に告げて家を後にした。
 天気は曇り。雨が降る前のような、水と土の匂いが混じった風に髪を流しながら、喫茶店で珈琲でも飲もうかななんて考える。
 街のはずれにあるその喫茶店は、峠を越えた先。森の入り口を自然の門にするという、どこか洒落た西洋風の建物は、坂を上ればすぐに見えてくる。そこに行って、無口な店長に話を聞いてもらおう。そうすれば少しはこの淀みも軽くなるかもしれない。
 ところが、今日はどうもついていないらしい。近くだから大丈夫だろうと思っていたのに、峠に近づくにつれて霧のような雨が降っていた。
 しょうがない、と小さく駆け出す。ブーツが小さく水をはねる。袴の裾に、小さな水玉模様が刻まれる。それでも、喫茶店まで走れば雨宿りくらいできる。
 しとしとと降る雨。それは良く知った道も、何処か不安を誘う知らない物へと変えてしまう。
 出かけないほうが良かったのかと、小さな後悔を考えないようにしながら、白い百合の咲く道を進んでいった。
 と。
 坂の頂上。そこまでくれば喫茶店が見えるという、白い百合の咲くその場所。
 そこに、見知らぬ小さな小屋があった。

□ 彼。「桐原 信也」

 桐原は街の中でも結構な権力者だ。
 自分はそこの長男として生まれ、育ってきた。生まれたときから将来の道を決められている、なんてことはないと思うけど、実際のところ否定できない。成績から学校まで、全て父の言う通りにしなければいけなかった気がする。
 そんな父に抵抗する気なんか、これまで微塵もなかったからそのまま進んできた。だけど。
 たった一つ。これだけは譲れないものができた。
 許嫁、というやつだ。華族、良家の娘だかなんだか知らないが、写真も見る気にならなかった、その相手。それがたとえ父の言いつけであっても、それに背いたからと罰を受けることになっても。
 俺の世話係にと割り当てられている、同じ年の少女。香奈はその許嫁の同郷だという理由だからか、父から説得するように頼まれていたようだ。
「ちづちゃんは私の幼馴染なんですよ」
「とても良い子なんです。特にお裁縫が上手で――」
 そんな風に説得を続けようとする彼女。俺は寧ろ、彼女のほうに惹かれていた。
 だから、ある夜その想いを打ち明けた。
「そんな、私なんか……」
「身分が違います」と、袖でそっと隠された口では否定するのに、頬は紅く。その瞳はどこか夢を見ているように見えた。
 そして、見合い前日の夜、俺は彼女の手をとって屋敷を後にした。香奈が生まれ、育ったというその町へと。

□ それから 1

 その足音の主は、小柄な女の子だった。まだ、中学生くらいでは無いかと思えるほど小柄な身体。雨に濡れていても綺麗だと分かる、青のリボンで纏めた腰に届くほどの黒髪。でも、その女の子は普通じゃない格好をしていた。
 桃色の着物に、青の袴。それから、ブーツ。
 まるで、大正時代の学生のような格好。
 彼女は僕の視線を気にかけることなくバス停へと入ってきた。そして、巾着からハンカチを出して服についた水滴を払う。
 それからそのハンカチを巾着の中へと丁寧に戻す。と、ここで初めて目が合った。
 彼女の行動を思わず見つめていた僕と、ふと顔を上げた彼女。
 彼女はとても不思議そうな顔で僕を見ている。
 どのくらいそうしていたのか。屋根の上に落ちた水滴の音で、二人とも我に返った。
「ぁ、ごめん……」
「ぃぇ、こちらこそ不躾に見てしまって……」
 そして、雨のしとしと降る音が沈黙を支配する。

「雨。止まないね」
「……そうですね」
 ぼんやりと百合を眺めながら、少しずつ会話が進んでいく。
「そういえば、変わった格好してるね。何処の学校?」
「私は、桜木女学院に通っています。……貴方も、見たことの無い服ですね。どこかの制服か何かですか?」
 ……どこか、会話がかみ合わない。
 なんかこう、じいちゃんやばあちゃんと話をするような雰囲気だ。
 何処か触れてはいけないような空気。話題自体は構わないのだが、彼女と話すこと自体が何かを狂わせる。「あぁ、うん。今高2」とだけ答えると、「そうなんですか。私はまだ中等部の3年なんです」とだけ返ってきた。

 「私、明日お見合いをすることになってるんです」
 彼女が突然つぶやいた。
「お見合い?」
 僕が鸚鵡返しに尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「会ったばかりの方にこういう事を話すのはどうかとも思うのですが……」と、申し訳無さそうに口を開いた後、「でも、少しだけ。聞いて頂いてもよろしいですか?」と、何処か寂しそうな目を向けてきた。
 何処かおかしい事になっても、この沈黙に耐えるよりは良いかもしれないと頷くと、彼女は何処かほっとしたような顔をした。

「ぁ。私、春宮ちづといいます。ぇっと、それでお見合いの話なんですけど……一昨日急に写真を渡されて……その人が、私の生涯の伴侶だと」
 でも、正直乗り気ではなくてですね。と彼女は小さく笑った。
 親の決めたお見合いなんて、どこか遠い世界の話だと思っていた。しかもこんな、中学生くらいの年で将来がきっちり決まってしまうなんて。
「相手のこと、知ってるの?」
 なぜか僕は、そんなことを尋ねていた。
 ただ、雨の日のバス停に雨宿りをしているという接点しかない僕と彼女。それは霞む世界の中ではっきりとした存在だったからか。世界にはたった二人しかいないという、夢や映画の世界でしかありえないような考えだったからかもしれない。
「相手、ですか?」
 彼女も意外そうに口を開く。
 あぁ、これは失礼だったな、謝らなきゃ。と、口をあけようとしたその時
「相手はお互い知りません。私はこの街で生まれて、この街で育っていました。外の世界なんて、本の中でのお話ですから」
 そう呟く彼女に、僕は何も言えず。ポケットの中を探って出てきた飴を口の中に放り込んだ。

 □ ■ □

 それからそんな時間もたたずに雨が上がった。
「あがりましたね」
「うん、止んだね」
 あたりはすっかり暗くなっていた。時計を見ると、もう夕食の時間を回っている。
「僕はこのまま帰るよ。……またね」
 と、口の中に残った飴を噛み砕いてから、バス停の外へと出ると、彼女も一緒に出てきた。
「もう暗くなってきたので、私も帰ることにします。母が心配してると思うので」
 そういう彼女とは道が途中まで一緒らしい。なので、そのまま坂道を下る。

 ところが。
 何かがおかしい。
 坂を下ると、住宅地やマンションが見えてくるはず。それなのに、何もない。
 家はまばらで、道は舗装すらされていない。
「あれ……?」
 足を止めて、目の前の風景をぼんやりと眺める。
 目の前には茶色くくすんだ風景が広がっていて。雲の切れ間から見える月が、嫌に丸くて。
「嘘……」
 隣から漏れたようなその声。隣を見ると、彼女も同じように足を止めて、立ちすくんでいた。
 何かを認めたくないかのように口を押さえ、目の前を呆然と見ている。
 それは、目の前に広がる世界がお互い知らないものであるということ。
 なんとなく、後ろを振り返ると、そこには、バス停なんてなく。ただ、黒い闇が小さな水滴で煙っていた。

 どのくらいそこで僕たちは立ちすくんでいたのか。
 夜はどんどん深くなり、遠くに見える民家の明かりがぽつぽつと灯り始めた。
 このままここに居れば色々と危ない。しかし、隣の彼女は未だ目の前の光景を受け入れられないらしく、未だ呆然としていた。
「春宮さん、ここでこうしてるわけにもいかないから、とりあえずどこかの家で事情を聞こう」
 まだ、状況を受け入れられない彼女の腕を引くようにして、明かりのほうへと歩く。
 いくらか進んだところで、人影が見えた。近づくにつれて見えてくる輪郭からして、子供をつれた女性。一緒に歌う歌が、風に乗って微かに聞こえてくる。
 放心状態の春宮さんの手をとって引っ張る僕と、子供の手をとって歩く母親。
 距離が縮まり、すれ違った直後、母親が足を止めて振り向いた。
「ちづ、ちゃん……?」
 ちづ。その名前に、僕が思わず足を止める。それは隣で足を止めている彼女の名前。
 彼女を知ってる人が居た。そして、呼ばれた名前に春宮さんが反応した。
「ちづちゃん、分かる?私!」
 何処か嬉しそうに春宮さんの肩を掴んで声を上げるその女性。
「……かな、ちゃん?」
 彼女の目の焦点がはっきりとしてきた。ゆっくり瞬きをして、それから目の前の女性をじっと見つめる。
「嘘……なんで?」
 それは、信じられないという言葉で埋め尽くされた言葉。「なんで?」と小さく繰り返す度に声が震え、目には涙が溜まっていく。
 女性もまた、涙を浮かべながら彼女を優しく抱きしめ、口を開いた。
「ちづちゃん……信じられないのは私のほうだよ。なんで、35年以上前のままなの?」
 ……35年?
「35年って何、その年数……」
 思わず、口を挟んだ。
 その女性は、春宮さんを抱きしめたまま僕の方を見た。そして、視線を地面に落として話し始めた。
「ちづちゃんは、35……ぃぇ、私が15の時ですからもう38年前になりますか。雨の夜に散歩へ行くと言って出掛けたきり、帰ってこなかったそうなんです。私は他の町のお屋敷で働いてましたから、その日のことは知らないのですが……」
 とある理由でこの街に戻ってきたら、ちづちゃんが行方不明になったと大騒ぎだったんです。と、女性は続けた。
「何処を探しても、彼女は見つからず。神隠しだということで落ち着きました。でも、私はどうしても信じられなくて……」
 と、女性は安堵したようなため息をつき、「ちづちゃん。私の家に行こう?」と優しく声をかけた。

 □ ■ □

 その女性、桐原香奈さんの家は、そう遠くはなかった。
 そこまで大きくはないが、小さくも無い家。応接間に通されて、ソファに腰掛ける。
 春宮さんは精神的ショックが大きかったのか、家に着くなり眠り込んでしまった。
 一緒に居た子供も、春宮さんと一緒に寝かしてきたという香奈さんは、一番怪しむべき僕にもコーヒーを入れてくれた。
 その湯気を眺めながら、今日一日の出来事を話す。学校帰りに雨が降ったこと、雨宿りをしていたら春宮さんがやってきたこと。彼女としばらく話をして、雨が止んだらもう既に自分の知っている場所ではなかったこと。
 そこまでを話したところで、香奈さんは少なくなったコーヒーを注ぎ足してくれた。
 改めて礼を言ってカップを手に取り、自分が気になっていたことを尋ねる。
「この街は、僕の住んでいた町とはちょっと離れてると思うんですけど、それにしても記憶の中と違いすぎます。この街の建物もそうですし、服装だって。どちらかというと……その……」
 僕が言葉を濁すようにコーヒーに口をつけると、香奈さんは「大丈夫です。おかしいなんて思いませんよ。続けてください」と同じようにコーヒーを飲みながら、僕の話を促した。
「ぁ、はい……その。どちらかというと、過去の世界のような気がするんです」
 香奈さんは、コーヒーをもう一口飲んだ後
「やっぱり神隠しだったのかもね」
 と小さくため息をついた。
 その姿は今にも消えてしまいそうなほど弱く見えて。僕が思わず「大丈夫ですか?」と声をかけると、香奈さんはにこりと笑って、
 「去年主人が亡くなってから、どうも体調が良く無くてね……でも、ちづちゃんが帰って来たなら、和明も安心して任せられるわね」
 なんて、イタズラっぽい微笑を浮かべた。

 通された寝室に用意された布団の中で、今日のことを反芻する。
 一体何が起こったのか、僕にはさっぱり分からない。ただ、香奈さんから聞いた話を思い出して、どうしようもない考えをめぐらせることしかできない。
 香奈さんは、別の町から駆け落ちをして故郷であるここへと戻ってきたらしい。その町は、そう遠くは無いので二日程で辿りつき、そして、この街に着いたら、春宮さんが居ないという騒ぎが起こっていた、と。そしてそれから、一つの噂が流れ始めたという。
 曰く。白い百合咲く雨降りの夜には、一人で外に出るべからず。破りし者は白き闇に連れ去らる。それは、僕がばあちゃんから聞いた他愛も無い怪談。
 そんなことを色々考えているうち、僕は眠りについていた。

 □ ■ □

 何もできることがないまま、数週間が過ぎた。家では母さん達が心配してるんだろうな、とも思うが、あのバス停の場所を見に行くと、バス停だけでなく百合の花なんて咲いてなかった。あの神隠しの話を信じるなら……いや、信じるしかないのだけど。あの話が確かなら、百合の花が咲いていないといけないのだ。
 香奈さんのおかげで、ここで生活することができるようになったものの、春宮さんはこれまでの時間を埋めるかのように香奈さんと話し続け。僕はといったら香奈さんの息子の相手をするくらいしかなかった。
 香奈さんの息子は、僕に凄く懐いてくれた。新しい遊び相手が珍しいのか、僕を見つければ、立てるようになったばかりのその足で寄ってくる。彼の相手をしながら二人の話に耳を傾けると、昔の思い出話や今現在の話で盛り上がっているらしい。特に、香奈さんにとっては積もる話があるに違いない。「和明君、今いくつなの?」「今2歳になったところ」だの「2年経ってずいぶん落ち着いたけど、まだあちこち治安が悪いわね」だの話しているのを聞いていると、春宮さんも落ち着いてきたようだった。

 僕と春宮さんには、もう一つ課題があった。
 それは、この時代に対応することだった。この時代は春宮さんにとっては未来、僕にとっては過去だということは分かった。しかし、お互いにもとの時代からはかけ離れている。服装はもちろん、買い物や料理をとっても僕の居た時代とは違いすぎる。
 そんなわけで、僕と春宮さんは香奈さんにいろんなことを教わるようになった。
 こうやって一生懸命に料理や掃除をする春宮さんを見てると、何処か懐かしい気持ちになる。どこかで見たことがあって、それでいてずっと近くに居たような、そんな気持ち。
 出会ってから、まだ一ヶ月程度。それなのに、懐かしいも何もないと思うけど。
 でも、僕にとって彼女はとても懐かしくて温かい存在になっていった。

 そんなこんなで生活にもようやく慣れてきた頃。
 香奈さんが倒れた。
 確かに、ご主人を亡くした頃から体調が優れないと言っていた。でも、それ以上に和明の世話と僕らが突然現れたことで、無理をしていたのかもしれない。本当に、倒れたのは突然だった。
「ちづちゃん、光秋君…和明のことよろしくね」
 布団の上で、何処か弱々しい微笑を浮かべて呟く声も、すぐに消えてしまいそうなほど弱い。
「嫌……嫌だよ香奈ちゃん……」
 布団の端に手をつき、目に涙を溜めて首を小さく横に振る春宮さん。そんな彼女にも、香奈さんは笑いかけ、涙を軽く拭ってから「大丈夫。ちづちゃんは一人じゃないよ」とだけ口を動かし、僕に「ちづちゃんをよろしくね」という視線を向けて。
 ドラマで見るシーンのように。いや、それ以上にゆっくりと緩慢な動作で。
 香奈さんの腕が、ぱたりと春宮さんのひざの上へと落ちた。

 香奈さんが居なくなった日から、春宮さんは香奈さんが座っていたソファの上でひざを抱え、ぼんやりして過ごすことが多くなった。母親が居なくなったことを良く分かっていない和明が本を持ってきても何処か上の空。ご飯を作っても、残すことが多くなり、どんどん弱っていくのが目に見えるようだった。毎日、朝起きてトーストを少しだけかじり、ソファでその日の空を見ながらぼんやりと座り続ける。そして、夜になり僕に時刻を尋ね、お風呂に入って寝る。そんな日々を繰り返している。
 傍に居て安心できるような気持ちを持っていたからか、僕はそんな彼女を見ながら、どんどん不安になっていった。陽だまりにあるソファ。そこはすっかり彼女の席になっていて。そこに行けば必ず彼女が居るという日々。でもそれは、このままだったら彼女が居なくなってしまうことは確実だった。

 そして、ある夜。
「春宮さん、和明寝ちゃったからお風呂――」
 そういいながらリビングのドアを開けた僕の言葉は、そこで途切れた。
 いない。
 彼女が、ソファの上に居ない。
 少しだけ開いたカーテンの向こうは夜の闇。そこからはしとしとと降る雨の音が聞こえる。
 雨。
 もしやと思って外へ出る。
 傘もささずに、街灯だけが照らす道を走る。
 水溜りも気にかけず、ただ一箇所。そこに彼女が居るという確信だけを持ってひたすら走る。
 なだらかな坂道のその頂上。
 彼女はそこに立っていた。

「春宮さん……っ」
 声をかけて立ち止まると、彼女は着物も袴も髪の毛まで雨でずぶ濡れになって、何処か焦点の合わない目で僕を見た。
「そこに居たら風邪引くよ。ほら、帰ろう?」
 手を伸ばすと、彼女は小さく首を横に振った。
「私、昔に帰らなきゃ……」
 そう小さく呟いて、僕から視線をはずした。

「昔に帰れば。帰って私があの日家に居れば……香奈は死んだりしなかった」
 降る雨が、彼女の髪を伝って、肩に吸い込まれる。
「香奈が違う人と結婚したなら、そんなことにならなかったかもしれない……」
 静かな雨の中、確かに聞こえるその声は泣いているのか。
 僕はただ、差し伸べた手を下ろして、彼女の言葉を聴く。
「だから……私は昔に帰らなきゃ…」
 熱に浮かされたように、繰り返し呟くそれは。

「そんな事言うなよ!」
 思わず声を上げた。
 春宮さんは、驚いたように僕のほうへと視線を戻した。
 雨に濡れたその姿は、今にも消えてしまいそうだけど。その目は少しの間だけ光を取り戻したように見える。
 驚いたように揺れるその瞳。
 それを真っ直ぐに見つめ返して、僕は口を開いた。
「確かに、僕だって帰れるなら帰りたいよ……この時代に来なかったなら……香奈さんは倒れたりしなかったかもしれない」
 僕はゆっくりと言葉を続ける。
「でも、この時代に来なかったら、君にも会えなかった」
 彼女は何も言わない。
 僕はもう、彼女に手をさし伸ばすことはしなかった。
 数歩だけ近寄って、そのままぐっと抱き寄せた。
 濡れた髪からの雫が、腕を伝う。触れる身体はとても冷たい。

「藤ノ瀬さ……」
「ちづ」
 言葉を遮って、腕に力を込める。
 彼女が消えてしまうなら、僕も一緒に消えるよう。
 僕がここに残るなら、彼女も一緒に居てくれるよう。
「ちづ。さっき僕は凄く不安だったんだ。香奈さんみたいに君がこのまま居なくなったら、って。不安で仕方なくて、気が付いたらこうやって追いかけて。そして君を見つけた。――嬉しかったよ。君がここに立ってたのを見つけたとき。そして、今こうして君がここに居るのがとても嬉しい」
 冷え切った彼女を温めるように、言葉をかける。
「だから、これからも一緒に居てください」
 冷たい雨の降るなか。僕の服に温かい雫が流れた。
 それは彼女の涙。
 小さく震える腕で、僕の服をしっかりと掴む。
「じゃぁ……藤ノ瀬さんは……居なくなったり、しないでくださいね……?」
 そう言って泣く彼女を、僕は離さないように。決して離さないよう、しっかりと抱きしめた。

 どのくらいそうしていたのか、いつしか雨は上がっていた。
「落ち着いた?」
 僕の服に顔をうずめたまま、こくん、と頷く彼女。
「じゃぁ。一つだけ。お願いしたいことがあるんだけどいいかな……?」
 その言葉にそろそろと顔を上げた春宮さんの目は、まだ少し潤んでいるが、それを気にすることなく僕を真っ直ぐ見上げ、鸚鵡返しに「おねがい、ですか?」と呟く。
 僕はその瞳を見て頷く。
「僕、君と会ってから笑ってもらったことが無いんだ。だから、僕のために。僕に向かって、笑ってもらえないかな?」
 彼女はしばらくきょとんとした目で僕のことを見ていた。
 でも、すぐに濡れた袖で目をこすり、優しく微笑んだ。

□ それから 2

 雨が上がり、僕は縁側へと出た。
 いつもならば温かい日差しの入るその場所には、既に先客がいた。
「雨、やみましたね」
 そう言ってこっちを振り向く彼女は、あの日から変わらない笑顔を向ける。
「あぁ、止んだね」
 僕もそう返して、隣へと座ると、そこには既に二人分のお茶とお茶請けが用意されていた。

「……今日、だったんですね」
 雨上がりの空を見上げて、彼女がつぶやく。
「うん。今日だったんだよ」
 頷いて、お茶をすすった。

 あの雨の夜から、もう既に50年以上が経過している。
 彼女と僕は香奈さんとその旦那さんから名前を借り、その名前で過ごしてきた。二人でいるときは元の名前で呼ぶ事もあったが、時が経つにつれてそう呼び合うことも少なくなった。
 香奈さんの子供は、僕と彼女で育ててきた。和明は妹や弟と共に無事大きく育ち、結婚し、子供が生まれた。
 そして和明は一番最後に生まれた子供に、光秋と名前をつけた。

 それからはとても不思議な日々だった。
 だって、自分自身の成長をこうやって見守ることになるのだから。
 小さな光秋は、僕が自分であることなど気付くことなく「じいちゃん」と呼び、話をせがんできていた。そうやって成長し、小さな僕は高校生になり。
 今日。光秋が出かけた後雨が降った。
 傘を持たずに出かけた僕は、白い百合の咲くバス停で雨宿りをする。
 そして、もう。2度と帰っては来ないのだ。

「光秋さん」
 と、隣から呼ぶ声がした。
 その名前で呼ばれるのは久しぶりだと思いながら、彼女の方を向く。
 そこには、何処か暖かい笑顔の彼女。
「私、貴方と一緒に居れてとても幸せです。あの日、私を止めてくれて有り難うございました」
 そう言って頭を小さく下げるその姿に、昔の彼女が重なって見えた。
 僕は彼女の肩に手を伸ばして軽く抱き寄せ、
「僕も、あの日ちづに会えてよかったと思ってるよ」
 そう、囁いた。

一月に一つ、その月にあったお話を。
六月ですね。梅雨の季節です。
と、言うわけで、最近読んでる不思議物風味でございます。こんな感じで無限ループ。幸せならいいのかしらともおもいつつ。
それにしても、ちづちゃんはどことなく初音ちゃんと重なるような気がしました。まぁ、別人なんですけど。w
と、いうわけで。ではまた来月。