さて、そろそろくるかな?
時計を見て、シャーペンを机に放り投げる。
「彰君、夏休みは満喫してるかな?」
なんていいタイミング。転がったシャーペンが止まるその時に彼女が入ってきた。
一つ上のいとこ。水守 和(かなえ)。きっと今日も、栗色の長い髪を蒼いリボンで留めた彼女は、鞄を片手で抱きかかえるように持って立っている。もう、ここ最近の恒例行事。高校生のカナエは、夏休み中は昼で終わる学校帰りにうちに寄って、昼ご飯に呼ぶついでに俺の様子を見に来るのだ。だから、振り向かなくても姿なんて容易に想像がつく。
「満喫なんていうけどな、カナエ。小学生が塾や宿題に追われる世の中だぞ?イマドキの中学生がタノシイナツヤスミを満喫できると思うか?」
入ってきた彼女を軽く流し見て、転がったシャーペンに目をやると、カナエが困った様子で立ったままおろおろしている空気が背中に伝わってきた。
「そんなところで突っ立ってないで、さっさと入れば?」
微妙な沈黙が耐え切れず、きぃ、と椅子の音を響かせて振り返るとそこにはやはり困った顔でカナエが立っていた。風でも強かったのか、蒼いリボンで留めた髪が微かに乱れている。それ以外は、いつも通り。予想通りの彼女だ。
「彰君、もうすぐご飯だって」
今日はお素麺だってよ、と独特の遅さを持った口調で話しかけてくる。
「わかった。すぐ行くよ……っと、その前に。カナエ、ちょっとこっち」
椅子の背もたれに肘をかけて手招きすると、彼女はどうしたのといわんばかりの顔で部屋へと入ってきた。
「ぁ、彰君宿題してたんだ。どう、進んで…………きゃ」
机の上に広げられたノートを覗き込もうとした瞬間、髪を留めていたリボンを解く。カナエの背は俺よりもちょっと低いから、髪を解くなんて簡単だ。
「ぁ、彰君!?何するの……」
どこか焦ったカナエを無視して、引き出しから櫛を取りだす。
「いいから。ほら、ここに座ってろ」
そういって席を立つと、カナエは頭の上に疑問符を浮かべつつも、そっと椅子に腰掛けた。
「ったく。今日はそんなに風が強かったの?」
そう言って、髪を解いてやる。カナエの髪は相変わらずさらさらしていて、手櫛でもいいんじゃないというくらい、櫛の通りがいい。すいてるこっちが楽しくなってくる。
「あぁ、今日は新坂君が近くまで乗せてくれたんだ」
新坂?
聞き慣れない名前――しかも、君、ということは男か。思わず手を止め、鸚鵡返しに尋ねる。
「新坂?なんだカナエ。お前とうとう彼氏が?」
カナエをからかうのはよくある話。その割にカナエは学習していないような気がするほど素直な反応を返す。
「ぃゃ、そんなことないよ。単なるクラスメイトだって」
今日はたまたま近くを通るからって乗せてくれたんだ、とご丁寧に説明をしてくれる。
ふぅん、クラスメイトねぇ。と俺は一言だけ呟いて、彼女のリボンを結びなおした。
――思わず力を入れすぎて、カナエに痛がられたのは別の話。
□ ■ □
それから、日常が少しだけ変わった。
カナエは新坂君とやらの自転車に乗せてもらってやってくるようになった。
何でも、彼の家の途中にあるとかなんとか。
それをカナエは、何処となく嬉しそうに、独特の遅さを持った口調で語る。
それは新しい友人が出来たからだ、とカナエ本人は言う。疑いたいのはヤマヤマだが、彼女との付き合いは俺が物心ついたときから続くもので、それが本心かどうか位少しは分かる。ので、本人は本当にそのくらいにしか思っていないのだろうな、とニイサカクンに軽い同情なんかを寄せてみるたりもする。
その二人の関係が何時まで続くか。それが崩れたら、カナエはどうするか。
夏休みの宿題を順調に片付けつつ、ぽつりとそんな事を考えていた。
その考えに対する答えは意外とあっさり出た。
いつもより遅い時間、いつものようにドアを開けたカナエは、いつものように「彰君、今日はあんかけチャーハンだってよ」と声をかけた。
「ん。今行くよ」
そう言って振り返ると、カナエはドアを開けたままの状態でぼんやりしていた。
彼女はいつものように振舞っているのかもしれないが。カナエの事を誰よりも見てると自負してる俺からすれば、いつもと様子が違う事位分かる。
「どうした?気分でも悪いのか?」
いつものように、世間話のように。さりげなくかけた言葉でカナエは我に返ったようだった。そして、何事も無かったかのように「大丈夫だよ」と笑う。
そんなはずは無い。何も無いなら、そんな困ったような笑顔を向けたりしない。
まぁ、カナエが本当に大丈夫かどうかはしばらく様子をみたら分かるかと、そのときは何も言わずに昼食へと向かった。
食事中も、カナエはどこか上の空のようだった。俺や母さんの言葉に受け答えはするものの、どことなくふわふわした、心ここにあらずの返事。
「で。カナエ。お前何があった?」
国語を教えてもらうという約束だったので、昼食後部屋へとやってきたカナエに、思わずそんな事を尋ねた。
そして、尋ねた直後にしまったと後悔する。
本当は尋ねるつもりじゃなかった。
きっと、これはカナエ自身の問題で俺の介入する隙は無い。そんな事聞いてもどうしようもない事くらい分かっていたのに。気がついたら口を滑らせていた。
でも、聞いてしまった事は仕方ない。言葉というのはそんなもんだ。姿は残らないくせして、いつまで経っても存在を主張する。そして、その主張は、いらないときに限って有効だ。
カナエの方を振り向くと、自分では完璧と思っていたものをあっさり破られたような顔をしていた。例えるなら、ハトガマメデッポウ。
「な、何も無いよ?」
そんな顔しておいて、まだそんな事を言う。
「カナエ。そんな顔しておいてその科白は説得力が無い」
もう自棄になって、彼女の目をまっすぐに見る。
しばらく困ったような顔で思案していたが、困ったようにスカートを軽く握り、俯いてから「告白、されたの」と小さく呟いた。
「私はただ、いい人だなって思ってた。毎日こうやって――私はいいって断ってたんだけど――自転車に乗せてくれて。いろんな話をして。それも楽しくて。本当に、いいお友達ができたな、って。そう。思ってて……」
それなのに、どうしたらいいのかわかんないよ、と。
独特の遅さを持った口調で呟いたカナエは、俺にちょっとだけ縋る様な目を向けた。
「……知らない」
「ぇ?」
その目から視線を外し、シャーペンを手にとって机に向かう。
そんな縋るような目で見るな。
他の男の気持ちを相談されて、俺が答えられるもんか。
「そんなの自分で決めろ。俺が何か言ったところでお前の気持ちの代弁にはならないよ。それに、そいつの気持ちはお前1人が受け取ったんだ。俺に向けられたもんじゃないし、関われるところじゃない」
ノートと教科書に視線を向けて。彼女の方を絶対に見ないで。カナエが泣きそうな顔をしているのは分かってる。
そしてそのまま。カナエは部屋を後にした。
「…………かっこわる……」
ぁー。みっともない。とカナエが階段を下りる音を聞きながらシャーペンを机へ放り投げる。
あんな事いうつもりは無かった。カナエが困ってるなら、少しくらい手助けしてあげたい。ずっとそう思ってきた。それなのに、このざまだ。単なる嫉妬だといってしまえばそれまで。言ってしまわなくても、それ以上でも以下でもない。あぁ、なんだか無様だ。
□ ■ □
それから土日をはさんで4日ほど。カナエは俺を避けているようだった。
相変わらずご飯を呼びに来るものの、ドアを隔ててのこと。決して前のようにドアを開けない。ご飯の時も、絶対に目を合わせない。
まぁ、彼女なりに悩んでいるようなのでこっちからは何も言わない。
昼食を終えて、1人さっさと部屋に戻る。
今日はとりあえず数学かと、ノートと教科書、それから――――と。
ドアが小さく音を立てた。もとい、控えめなノック。
「……なんだ」
椅子はドアに背を向けたまま。答える。
ドアは、開かない。
ただ、「彰君」と、小さく俺を呼ぶ声がした。
返事はしない。ただ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「あのね、新坂君にはごめんなさいって言って来た」
どこかさびしそうなその言葉に、ほっとする自分が居る。あぁ、俺、嫌なやつー。と思いつつも、その心境を否定する気はまったく無い。
「彰君、……怒ってるかな」
ポツリと、そんな言葉が聞こえた。
「ねぇ……私の事……、嫌い…?」
そのままカナエの泣きそうな声が続く。それは悲しみというよりも不安。
俺は答えない。
カナエも、何も言わない。
そんなワケない。そう言えたらどれだけ楽か。
はぁ、と一つため息をついて。椅子から立ち上がる。
無言のままドアを開けると、そこには今にも泣きそうな。いや、もう泣いていたのではないかというほど目に涙をためたカナエが立っていた。胸の前で両手を軽く握り、肩を落として俯くその姿は、怒られる事を覚悟したかのように立ちすくんでいた。
「和」
一言。それだけで彼女は肩を震わせた。
「大丈夫。怒ってなんかない」
小さく息を吐いて、その言葉を乗せると、カナエは小動物のような目で俺をちらりと見上げた。その目は「本当に怒ってない?」と訴えかけているようだ。
本当に年上なのかと疑いたくなるが、カナエは昔からこんなだったから仕方ないなと小さく笑う。そして、部屋の中へと引き入れて、ドアを閉める。
「ぁ、彰、くん?」
ついさっきまで泣きそうだった彼女の顔が見ていられなくて、ドアに背を預けて彼女を抱きしめる。肩の辺りに涙が染みて、一瞬だけの温かさを感じる。それは一回だけではなく、しばらくの間彼女の涙は流れ続けた。
どのくらいそうしていたか。
カナエはいつの間にか泣き止んでいた。
が。俺の服を握って離そうとせず、俯いたまま。泣きはらした顔を隠したいのか。それとも別の理由からか。どちらにしろ、俺からすれば不都合は、無い。断言してもいいくらい、無い。
「ねぇ、彰君」
カナエを抱きしめたままぼんやり天井を眺めていると、小さな声が上がった。いつもよりも、更に遅い口調で。
「新坂君に告白された事話したとき、彰君怒ったかと思った……いつも、私が困ってたら、すぐに気づいて、助けてくれて……」
「お前はすぐに自分ひとりで考えて困るタイプだからな」
そして、すぐに顔に出る。とは言わずに、そのまま先を促す。
「うん……彰君はすぐに気づいてくれるから。私、彰君にいつも頼ってたな、って。だから、頼りすぎるなって怒ったのかなって」
そう、思ったの。とまるで見当違いの事を言う前に。
「……違うよ馬鹿」
そういって、カナエの頭にあてていた手に力を入れた。
「ぁー。単なる嫉妬、だよ。お前が、お前の事を良く知らないヤツの気持ちなんかで悩んでるから……」
あぁ、しまった。こんな事言ったら、またカナエが困るだけだ。
でも、一度開いた口は止まらない。言葉というのはそんなもんだ。姿は残らないくせして、いつまで経っても存在を主張する。そして、その主張は、いらないときに限って有効。止めなきゃいけないけど、これはもう言わないと気がすまないな。と小さな葛藤が生まれる。
数秒の間。
いいところで折り合いをつけた一言を。
出来るだけカナエに近いところで、囁く。
「お前の事は、俺が一番見てるんだ。一番近くに居るから。お前を困らせていいのも、泣かせていいのも、俺だけなんだよ」