大正2年、春。四月。
私、東海林 初音は、14歳の誕生日である今日、幼い頃に決められた許婚と初めて会う。
私は昔から、見たこと無い許婚を当然のように受け入れていた。別に、昔からの手紙のやり取りだけでも十分で。どんな声か、どんな格好かを想像してはうきうきした気分に浸っていた。
でも。
最近、その考えは変わってきた。
それはとある喫茶店に通うようになってからのこと。
□ ■ □
あの日、この状況が嫌になって家を飛び出して足を向けた喫茶店。
そこは昔、迷子になったとき偶然見つけたお店で。学生と言っても通じるほど若い、ロイド眼鏡をかけた店長が笑顔で珈琲を入れてくれる。ちょっと茶色い髪と、眼鏡の奥に見える、茶色くて優しい瞳。そんな彼が作るのは、色んな悩みも話せるような暖かい空間。いつもは人がほとんど居ないそこに、その日だけは先客が居た。
店長と同じか少し年下に見える彼と交わした言葉はごく僅か。でも、その言葉はどうしても忘れられなくて。それから何度も喫茶店で会うようになった。
何度か会って話すうち、私は自分の見たことの無い許婚に不安を覚え始めた。
それは、今までの常識が欠けてしまった様な感覚。そして、その感覚はどんどん大きく育ってしまって。
私はどんどん、幼い頃のうきうきした感情をなくしていった。
□ ■ □
そして、今日。
私はこっそり家を抜け出して、あの喫茶店へと足を運んだ。しばらく前に切った髪を風に揺らしながら、春の道を歩く。
もう、一人で来ることは無くなるかもしれないあの空間。最後にもう一度だけ、と。そんな気持ちで桜並木をくぐって、あの小さな鐘のついた扉へと。
だけど。
そこにあったのは「本日店休日」の小さな札がかけられたもの。
思わず扉の前に立ち尽くす。私が足を運ぶときはいつだって開いていたその扉。それは私が迷子になったときも、家から飛び出した時も、嬉しい日も悲しい日も。いつだってそのドアを開ければ、ロイド眼鏡をかけた若い店長がいれる珈琲の匂いが出迎えてくれて。たまには洋菓子だって出してくれて。そして時々来店する彼と他愛も無い世間話をして。私がとてもとても大切にしていた時間へと続くその扉。
それが、今日。よりによって、この日に。
「ぁ、東海林さん」
その声に振り向くと、学ランにマントという見覚えのある学生。それはこの喫茶店に時折訪れる彼。私がぺこりと挨拶をすると、彼も帽子を取り、さっぱりとした前髪を軽く払って、「どうも」と会釈を返してきた。彼、秋岡 修さんは、18歳で高等学校の1年生。学校が近くて、帰りによくあの喫茶店に寄るのだと言っていた。
「今日はお休みだってね。かず…ぃゃ、店長が今日はお得意の所に行くって言ってたし」
と、彼はなぜか申し訳なさそうな目で小さな札を見つめていた。私も「そうですか」と呟くしかできない。
「そういえば、東海林さんも今日は用事だって話してなかったっけ……?」
ちょっとだけ長かった沈黙を風の音と一緒に飛ばした科白に、私はそうです、と頷いた。
「今日、14歳の誕生日なんですけど、初めて許婚と会うんです」
できるだけ笑顔を心がけたその言葉は、うまく伝わっているのか。彼は目を細めて「そっか、だから今日はおめかししてるんだね。おめでとう」と返してくれた。
「でもさ、東海林さん。なんだか寂しそうだね」
そう言って彼は私の目を覗き込んできた。
私の目を真っ直ぐ見つめてきたその目は、私の中の迷いをしっかりと射止めているようで。
「私……今日許婚に会うことが、少し怖いんです」
彼から目を逸らして、足元の桜を見る。軽く吹く風にも動かされるそれは、私の心境みたい。
「東海林さん…?」
心配そうに声をかける秋岡さんに、私は今一番の不安を吐き出した。
「私、小さい頃から当たり前のように許婚が決まってて。私もそれを当たり前だと思ってました。でも、このお店に通ううちに何か違うような気がしてきて……。それでも、仕方がないと思ってたんですけど、でも、やっぱり……っ」
今日、この店に来たかった。
「やっぱり?会いたい人でも居たの?」
優しい声。それに小さく頷く。頭を揺らした拍子に、目に溜まっていた涙がぱたりと落ちる。風に舞い上がろうとした桜の花びらを、地面に縫いとめる。
そう。私は会いたかったのだ。それは、好き、という感情かもしれない。喫茶店でしか会えない彼に。もう会えないのではないかと思った途端、居ても立っても居られなくなって、そして気が付いたら家を飛び出してここに居た。でも、お店は閉まってて。
「はい、会いたかったんです……」
会えなくなる前に、もう一度。珈琲を飲みながら、お話をしたかった。
秋岡さんは「そっか」と呟いて私の頭を抱き寄せた。
「大丈夫。東海林さんの気持ちはちゃんと伝わってるよ。それに、ここにもまた来れる。だって、東海林さん家を抜け出すの上手みたいだしね」
冗談交じりだけど、とても優しく慰める声。
私はちょっとの間だけ、あのお店と珈琲の匂いを感じた気がした。
□ ■ □
夕方間近。もうすぐ許婚と顔を合わせる時間。
「目、赤くないよね……」
さっき泣いた跡が残っていないか、部屋の鏡台で確かめる。
大丈夫、赤くない。しばらく前に肩でそろえた髪も、きちんと結えている。
最後に鏡の中の自分ににっこりと笑いかける。
うん。笑顔も上出来。
そして私は、夕食の間へと向かった。
「さ、初音さん。こちらですよ」
母が上機嫌で扉を開ける。
これまで手紙のやり取りだけを続けていた許婚が、この扉の向こうに居る。
それは幼い頃の感情を少しだけ思い出させる。どんな人が居るんだろう。姿は?声は?なんて、プレゼントの箱を開ける直前に似たそれ。でも、やっぱり。あのお店で珈琲を飲めなかった心残りの方がずっと大きくて。
扉が開く。いつも三人で食事を取るその席に、もう一人。
「初音さん。この方が貴女の許婚、藤沢 和也さんですよ」
「どうも、こんばんわ。お会いできて嬉しいですよ。初音さん」
母の紹介と同時に、立ち上がったのは。
十八、九才程で、秋岡さんと同じ位に見える。ちょっと茶色い髪と同じ色の優しい瞳。そして、ロイド眼鏡をかけた――。
「ぇ……」
だって。そんなはずは無い。
今日、お店は閉まってて。店長はお得意のところに行くっていう話で。
そう、これはありえない話。と、私が状況を飲み込めてない間に、許婚――和也さんが私の元へ近付いて来た。そして、信じられないまま彼を見上げる私に笑顔を向けた。
「こういう形でお会いするのは初めてですね。藤岡 和也と言います。初音さん、どうぞこれからも宜しくお願いします」
そういって、手を差し伸べてくる。
どんなに瞬きをしても、目の前に居るのはあの、店長。
その姿も、ちょっと申し訳なさそうな笑顔も、声も。違うのは服装と、居場所。
とてもとても、驚いた。でも、それは同時にとてもとても、嬉しいことで。
急に視界が潤んだ。昼間とは違う、温かいものが頬を伝う。
「ぁ、あれ……?」
それはどんなに拭っても止まってくれない。悲しいなんて感情はまったく無いのに。
「ぁ、初音、さん……?」
慌てた声で店長が私の涙を拭う。それは更に私の涙を増やすだけで。
私はしばらく、彼の前で静かに泣き続けた。
□ ■ □
そして。
「ぉゃ、いらっしゃい。初音さん」
からん、と軽い音と共に扉を開けると、ロイド眼鏡の店長が笑顔で出迎えてくれる。
温かい珈琲を飲みながら、私はちょっとした疑問を投げかけた。
「そういえば、ずっと私のことを知っていたんですか?」
カウンタの向こうで珈琲を入れていた店長の動きが一瞬だけ止まり、ちょっとだけ顔を赤くして、「えぇまぁ、その」と呟いている。そんな彼に代わって答えてくれたのは秋岡さん。
「勿論、和也は知ってたよ。東海林さんが髪を切った理由を知った時なんてさぁ……」
「修っ!」
さっきよりも頬を赤くして、店長が声を上げる。秋岡さんは「おぉ怖」と、全然怖く無さそうに言いながら私の後ろと隠れた。
この二人は学友だという。店長は夕方以降に趣味でやっているお仕事で、昼間は学校に通っているのだと話してくれた。秋岡さんはそんな店長を手伝う為に、この店にやって来る様になったらしい。
照れながらも怒る店長と、笑いながら隠れる秋岡さん。二人のやり取りを見てくすくす笑っていると、秋岡さんが後ろからちょっとだけ身を乗り出して、耳打ちをした。
「和也がカウンタの向こう側に居る間に教えてあげよう。あいつね、手紙のやり取りをしていた頃からずっと、東海林さんの事が好きだったんだよ」
私の頬があっという間に赤くなる。秋岡さんはその隙に、じゃぁ俺は和也が怒る前に帰るかな。と、あっという間に鞄を手に取り、鐘の音を響かせて去っていった。
そして残ったのは私と店長。二人だけ。
しばらく二人で鐘の余韻が残る扉を見つめていた。
と、店長は突然カウンタの外へと出て、私の隣で立ち止まった。
余韻も消え、やかんから出る湯気の音がしゅんしゅんと響く。
「あの、初音さん」
先に口を開いたのは、店長。なんだろうと顔を向けると、ロイド眼鏡の向こう側に、いつもの笑顔とはちょっと違う、真剣な眼が見えた。ただでさえ火照ってる頬が、更に赤くなる。
「初音さん。僕、ちゃんと言ってなかったですね」
と、ちょっとだけ戸惑うように視線をずらし、
「ここで会ったのは偶然でしたけど。…僕は初音さんの許婚だということを隠してきました。それは、とても貴女の負担になっていたのではと、とても申し訳なく思います。……でもそれは、私を許婚だからではなく、一人の人として、好きになってもらいたかったんです」
それからもう一度、私の目を真っ直ぐ見て。
「僕は、初音さんの事が好きです。貴女は僕を……許婚として、認めてくれますか……?」
とてもとても、真剣な眼。不安も何処と無く混じっていて、いつものほのぼのとした笑顔なんて、見当たらない程。
私の答えはもちろん、一つだけ。
「はい……有難う、ございます」
途端に店長はほっとしたようないつもの笑顔に戻る。
そしてそのまま、店長――和也さんは私を優しく抱きしめてくれた。