「さて、この世界から『彼女』は居なくなった」
昼間のお茶会。外に設けられた小さなテーブルと椅子。そこでそんな言葉を紅茶に溶かしたのは、シルクハットにコートの男。紅茶に向けられたその瞳はシルクハットと同色の前髪に隠され、表情を読み取る事は出来ない。隣にちょこんと座った少女だけが茶色く長い耳を少しだけ動かし、どこか不安そうに彼を見上げ、「いなくなっちゃった?」と視線だけで問いかける。
シルクハットの男は軽く微笑んで、少女の細く長い金髪の頭に手を載せた。白い手袋の手で頭を撫でると、色の薄い金糸のような髪が手袋に軽く引っかかってはさらりと落ちてゆく。
「まぁ、居なくなったといっても」
男はそう、続けた。
「これはとても便利な一言でね。実際はそうじゃない。例えば。そこに隠れていて、ただ姿が見えないだけかもしれない。そうだろう?」
少女の頭をなで、空いた手でカップを手に取り。そんな、少女には少し難しそうな言葉を何処とも知れない空へと投げる。
「――なんだ、気づいてたのか。帽子屋」
空から返ってきたのは、けだるそうな男の声。まだ、少年といってもいいかもしれない程、何処と無く若い。中途半端極まりないそれ。
「『彼女』は居なくなったよ。この世界から、姿形、綺麗さっぱりね。それは記憶に留まっていても、存在自体がもうこの世界には存在しない」
少女がどこか不安そうに、帽子屋に寄り添う。そんな二人など気にかけない様子で、空からの声は続く。
「ただ、記憶に留まるということは、『彼女』は確かに此處に、この世界に存在していた」
「――そして、今も存在している。違うかい?」
カップを口に運びながら、明日の天気の話のように言葉を繋げる。
返事は、無い。
肯定も否定もない。ただ、風が木の葉の音を奏でる静かな刹那。
帽子屋は笑えないジョークを聞いた時のようにクスリと笑った。
「面白い。実に面白い話だよ」
そして、隣に座った少女の頭をくしゃりとなで、言葉を続ける。
「『彼女』は確かに存在していた、そして、今も存在している。存在自体がなくなるということはこの記憶にも残らない」
返事は、無い。
「こうなると答えは自ずと出てくる。『彼女』はまだこの世界に居る。そして君は、姿を好きなように変えられたはずだ。淡いブルーのエプロンドレスに、艶やかな黒髪の少女。君には造作も無い事だと思うがね――チシャ猫」
返事は、ない。
ただ、一枚だけ木の葉がひらりと舞い降りてきた。
「あぁ、根拠ならもちろんあるよ。『彼女』が居た間、君の姿を見なかった。これじゃぁ不十分かな?」
へんじは、ない。
ただ、呆れたようなため息だけが聞こえてきた。
「じゃぁ、率直に言おう。『彼女』は君だ」
性別なんて、外見を変えてしまえば関係ない、と言葉にする前に、彼の苦笑いが聞こえた。
「分かった。俺の負けだよ」
そして、木の葉のこすれる音。
それから、目の前に少女が現れた。
艶やかな黒い髪は背中にさらりと落ち。
淡いブルーのエプロンドレスはふわりと裾に落ち着き。
茶色いブーツをかつりと鳴らし。
『彼女』は再び、どこか偉そうで、どこかだるそうに、この世界へと降り立った。
「――全く、お前には隠せないな」
『彼女』は椅子に腰掛けたまままの帽子屋を不機嫌そうな目で見下ろし、猫の声ままで皮肉っぽく呟く。帽子屋は、その返事に口の端を吊り上げてカップを運び「なんたって昔からの悪友だからね」とだけ笑った。