飼っていた金魚が死んでしまったので、僕は小さな水槽を抱えて夕方の海辺へとやってきた。寄せては返す揺らぎの音は、とてもやさしい鎮魂歌に聞こえる。
小さい頃に金魚すくいでとった赤い金魚は10年近くもアクアリウムの中で生き続けた。小さくゆれる水草と、小さな金魚だけの。とても小さな世界。僕はそんな世界に、イッツ・ア・スモールワールド、なんて冗談を呟いたこともあった。
小さな水槽を抱え、海辺にたたずむ僕。
正直、この水槽は手放すのが惜しかった。僕の人生の半分以上を共に生きてきた世界。僕が作り、そして最後まで見届けた。
と。
「かわいい水槽ですね」
突然、感傷に浸っているといってもいいようなぼんやりとした世界に、異質な声が飛び込んできた。
声をかけたのは同じくらいの年の女の子。白いワンピースに日傘、髪はとてもきれいな黒。傘に隠れて顔は見えないが、ちょっと控えめな声から、きっとその格好がとても似合う人形のような顔だと思った。
「この水槽、アクアリウムなんだ。僕が作って、今日最後の一匹を海に返すところ」
水槽を少女の目の高さに持ち上げる。その中には、ゆれる水草と、赤い魚。
少女は水槽をまじまじと見つめた後、「とてもかわいい世界ですね」と呟いた。
「この魚は、とても幸せだったと思いますよ」
少女は続けてこうも言った。
わけが分からない、といった感じでぼんやりと顔の見えない少女を見つめる僕に向かって、彼女は口の端をやわらかく上げた。
「だって、こんなに素敵な世界、どこを探してもないです。日当たりもいいし、空気もおいしい。そして時々は歌も聞こえてくる……」
そうして彼女が口ずさんだのは、僕が水槽の前でよく歌ったものだった。それは崩壊したばかりの世界にとてもよく似合う、やさしい歌。
彼女が歌ったのはたったワンフレーズだったが、僕はそれが終わるまでにその歌の全てを聴いた様な錯覚を覚えた。
気づけば海岸はいよいよ夕焼け色に染まり、海も空も真っ赤になった。
僕も彼女も無言でしばらく立っていた。
先に口を開いたのは彼女。
「そうそう。今日はちょっとお話があったんです」
「話?初めて会ったのに?」
「えぇ」
そう言って彼女は少しだけ傘をあげた。今まで隠れていた顔が、はっきりと見える。それは夕焼けで真っ赤に染まった、想像通りの顔。
そして響いたのは、今までの調子とは違う、はっきりした声。
「私は、ずっとあなたが好きでした。あなたのその目が、その言葉が、その歌が。私はもう居なくなってしまうけど、ずっと忘れないでください」
服も傘も真っ赤に染まった彼女は、とても幸せそうな笑顔でそう言った。
僕は呆然と突っ立ったまま、ただ水槽を抱えていた。
小さな世界にゆれるのは、澄んだ水と小さな水草。
海へと帰った赤い金魚は、僕の心という世界で、いつまでも元気な姿のまま。
□ □
そして時が過ぎ、赤い魚とすごした時間が人生の半分程になった頃。僕は久しぶりに夕方の海辺へと立ち寄った。
「遅くなって、ごめん」
小さく駆け寄り声をかけるその先には。
「えぇ、待ちましたよ」
白いワンピースに日傘、とてもきれいな黒い髪に夕方の赤い光をまとった少女。
「じゃぁ、行こうか」
「そうですね」
僕は彼女の赤く照らされた白い手をとり、浜辺を歩いていく。
赤い金魚の思い出は、赤く照らされた少女が受け継いだ。
僕はどうやら、あのときの金魚すくいで、赤い糸まですくったらしい。
これからも、過ごす世界はとても小さく。
それ故に、絆は深い。
それは一つに繋がった、さながら歌のような世界だった。