鏡の兄弟

 ナトラは一人っ子だ。年はまだ10になったばかり。
 仲がいいのは近所に住むカズノ・ラシャとアリア・フィボナッチ。
 ただ、彼は一つだけ。誰にもいえない秘密を持っていた。

「今日は果物を取ってきたよ」
 彼が語りかけるのは、大人でも余裕で全身が見れる程の大きな鏡。
 鏡に映るのは彼。しかし、その姿に彼の持つ果物は無い。
 それは、屋根裏部屋の奥にあったもの。最初は何の変哲も無い、ただの鏡だった。
 そう。最初は。
 その日たまたまカズノとけんかをしていたナトラは、その鏡に映った自分へ愚痴をこぼした。
 異変に気付いたのは、一通り愚痴ってしまった後。
 鏡の中の自分が、自分を慰めるような目でこっちを見ていた。それは自分が動いても変化は無い。本来なら気味悪がってその場から逃げ出すが、ナトラはまだ子供だ。不思議な現象もすんなりと受け入れてしまった。
 それからナトラは一日に何度か、鏡の元を訪れるようになった。
 鏡の中の自分は決して喋らない。それでも、秘密があるという満足感がナトラにはあった。

□ ■ □

 そんな日々が続いたある日。
 その日は夕方から雨が降った。そんな雨の中、駆け込むように鏡の前へとやってきたナトラは鏡に向かって話し始めた。
「今日、カズノとけんかしちゃった」
 そんなで出しで始まった友人への愚痴。原因はとても些細なこと。なのに大きく発展してしまった。それでも僕が正しいのに、アリアまでカズノの味方をするんだ。と。一度口をついて出た愚痴は止まらない。どんどん昔の出来事まで持ち出して、文句を言い続ける。
 鏡の中のナトラは、それを黙って聞いている。
 薄暗い屋根裏部屋の奥深く。天窓から時折差し込む雷光は遥か後ろ。かすかな光しかとどかないこの場所は、不思議なことが起こってもおかしくないと思わせるような、そんな空間だった。
 その不思議な雰囲気がナトラに影響したのか。
「カズノなんか、嫌い」
 ぽつりとそんな言葉が漏れた。
「アリアもだよ。いつもお姉さんぶっちゃってさ。僕が年下だからって、カズノの味方ばっかりだ。他の皆もそうだよ。褒めるのはお母さんのパイと刺繍、後シチューくらい。……僕もお母さんのパイとシチューはとても好きだけど……」
 そこまで喋ったところで、遠くから母親の呼ぶ声が聞こえた。
「ぁ、ご飯だ。じゃぁ、またね」
 そういって二階へ通じる階段を駆け下りて行くナトラ。その後姿を眺める鏡の中の人影が、静かに笑ったのを見たものは、居なかった。

□ ■ □

 次の日。昨夜の雨は綺麗に止み、とてもすがすがしい朝。
 玄関を飛び出したナトラは真っ先にカズノの家へと向かった。
 昨日のけんかは、誤れば仲直りできる。また、これまでのように遊べると信じて彼の家の戸を叩いた。
「カズノー、遊ぼう」
 しかし、その言葉に対応したのはカズノではなく、その母。
「あら、ナトラ。どうしたの?お母さんのお使い?」
 にこにこと話しかけるカズノの母。
「違うよ。僕、カズノと遊ぼうと思ってきたんだ。カズノ、居る?」
 その台詞は何かおかしかったのか。目の前の女性は、あらあらと笑った。
「うちにはそんな子供いないよ?それともそんな遊びがはやってるのかしら?」
「違うよ。……もしかして、昨日のことでカズノ怒ってそんなことをしてるの?僕、謝りたいんだ。カズノ、部屋に居る?」
 どんなにナトラがたずねても、「カズノの母」は、「うちにはそんな子供居ないよ」と首を横に振るばかり。
 何かがおかしいと感じたナトラは、今度はアリアの家に向かった。
 しかし、彼女の家でも答えは同じ。「そんな子供は居ないよ」と。
 その答えはどこか怖く。家に走って帰り、母親に話した。
「ねぇ、母さん。おかしいよ。カズノもアリアもいないんだって。どうして?」
 シチューを煮込んでいた母親は、カズノの母親と同じように笑った。
「何言ってるの?この村にそんな子供は居ないわよ?」
 やはり同じ返答。
「母さん、カズノもアリアも覚えてないの?」
 どこか必死なその問いにも、母親は優しく頷く。
「なんで?カズノは一昨日りんごを届けにきたよね?」
 と、テーブルの上のりんごを指差す。
「それに、アリアもこの間母さんに刺繍を教わりにきたじゃない。アリアは刺繍が上手だって、母さん夕飯のとき褒めてたよ?本当に覚えてないの?」
 それでも答えは変わらない。
 そして、母親はこう、口を開いた。
「それはラシャさんの所からいただいたりんごよ?それに、刺繍を習いにきた子なんか居なかったわ」
「……ぇ」
「それにね、ナトラ。この村にあなた以外の子供は居ないわ」

 □ ■ □

「ねぇ!どういうことかな、これ!」
 屋根裏の鏡。ここには誰も居なくても、もう一人の自分が居る。いつも、何も答えないけど聞いてくれる。だから。
「皆おかしいんだ。僕のほかに子供は居ないって、カズノもアリアも、誰も覚えていないの!なんで!?」
 鏡の中の自分は答えない。ただ、ナトラを見下すように笑っている。
「教えてあげようか?」
 その声は唐突。自分とまったく同じ響きで、それでいて冷たい声。ナトラが顔を上げると、鏡の中の自分が立ち上がって自分を見下ろしていた。
「それはね、君が嫌いだって言ったからだよ。君が嫌いだって言ったから、居なくなった。居なくなったということはどこかに行ってしまうということじゃなくて、存在ごと消えてしまう。最初から君以外の子供なんて存在しなかった、ということ」
「そんな……」
 呆然と見上げるナトラ。もう一人の自分は、にっこりと笑って手を差し出した。
「でも、僕がここに居る。だから、君は一人じゃないよ。ナトラ」


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